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真・三國無双6攻略 用語辞典を掲載しています。阿斗(アト) |
劉備の嫡子で、蜀の2代皇帝となった後主・劉禅の幼名。 母の甘氏が、妊娠中に北斗星の夢を見たことから名付けられた。長坂の戦いで趙雲に救われた故事は有名。 父から譲られた蜀の国を守ることができず、滅ぼしてしまったため、「阿斗」は無能な人間の代名詞として使われることがある。 |
一身都是膽也(イッシンコレスベテタンナリ) |
「膽」は「胆」と同義で「肝っ玉」を意味する。 全身が肝っ玉でできているような勇気や度胸が並々ならぬ人を讃えた言葉。 漢中攻防戦で趙雲はたった1人陣前に立ち、攻め寄せる曹操の大軍を待ち受けた。 趙雲の堂々とした態度に曹操軍は恐れをなし退却したという。 この活躍を聞いた劉備は「子龍は一身これすべて胆なり」と褒め称えた。 |
烏丸(ウガン) |
中国北東の狩猟遊牧民族。烏桓とも。 漢代には東胡と呼ばれ、紀元前209年頃、東胡は同じ遊牧民族の匈奴に滅ぼされ、 生き残った者が烏丸山に立て籠もったことから、烏丸という名がついた。 勇猛な民族性で騎射にも優れ、漢朝とは争いと服従を繰り返した。 河北を平定した曹操により討伐され、降伏した烏丸の兵は曹操軍に組み込まれた。 |
王佐の才(オウサノサイ) |
帝王を補佐する戦略家・軍師としての才能を賞賛した呼び名。 歴史上では、武王を助けて周の創建に尽力した呂尚(太公望)や、 漢の高祖・劉邦を補佐した軍師・張良など、強大な王朝を築いた始祖を補佐した名軍師が王佐の才の理想とされている。 三国志の人物では、荀彧が若い頃「王佐の才」と言われたことが正史に記載されている。 |
外戚(ガイセキ) |
皇后や皇太后の出身一族のことを指す。後漢の歴代皇帝は幼少のことが多く、母である皇太后が実権を握り、その出身氏族が権力を独占した。 だが、皇帝も成長するに従って自由な行動を欲し、外戚を疎ましく思うようになる。 そこで、後宮の宦官らと図って独断政治を行うことが多くなり、宦官と外戚の対立は後漢歴代の常態となっていた。 |
宦官(カンガン) |
後宮に仕える去勢された男性。後宮は皇帝の后妃が住むため、生殖能力を持つ男は遠ざけられ宦官が用いられた。 元々は「宮刑」という刑罰で去勢された者が多かったが、皇帝側近となるため自ら去勢する者も現れた。 有能な宦官もいたが、多くは私利私欲にふけり、側近政治を行い、後漢では宦官が大きな勢力となって外戚と対立した。 |
魏の五将軍(ギノゴショウグン) |
正史において、魏の名将5人が1つの列伝にまとめられていることから名づけられた。 張遼、楽進、于禁、張郃、徐晃の五将は際立った功績を残し、魏においては死後もなお英雄視されていた。 正史では、張遼は国家の重臣であり、楽進は驍勇果断、于禁は剛殻で威厳があり、張郃は臨機応変、徐晃は兵法に通じ思慮深い、と評されている。 |
羌族(キョウゾク) |
西アジアの遊牧民族。「羌」には羊を放牧する人という意味がある。 他の異民族と同様、漢代から三国時代に至るまで中央政府に対して争いと帰順を繰り返してきた。 中国国内に移住している者も多く、張魯の教団内には多くの羌族がいたという。 また、西涼の太守・馬騰は羌族の母を持つため、羌族は馬超と協力して曹操を脅かした。 |
匈奴(キョウド) |
モンゴル高原から華北にかけて居住した民族。系統は不明で、モンゴル系・トルコ系などの集合体とも言われる。 冒頭単于が勢力を拡大し、前漢を事実上、臣従させる。その後、前漢の武帝の攻撃を受けて衰退し、東西に分裂。 南匈奴は後漢に臣従し、三国時代に於夫羅・劉豹らが群雄争いに加わった。 |
玉璽(ギョクジ) |
「伝国の玉璽」ともいう。玉製の印鑑。秦の始皇帝が皇帝の印として定めた。 5匹の龍をかたどったつまみを持ち、李欺の筆による「受命於天、既寿永昌」の8字が篆書で刻まれている。 秦滅亡後、漢に受け継がれ、正統皇位の証の品とされていた。 演義では、董卓が洛陽を焦土として去った際、孫堅が焼け跡の井戸から発見した。 |
錦馬超(キンバチョウ) |
西涼の雄・馬超を称える言葉。「錦」は美しいものを例える際に使われる。 馬超は戦場に出るときに、獅子頭の兜、獣面模様の帯、白銀造りの鎧、白色のひたたれを身につけた。 その威風堂々たる姿を見て、人々は「錦馬超」と呼び称賛した。 曹操、劉備といった英雄も敵陣の馬超を見て「あれが噂に聞く錦馬超か」とため息をついたという。 |
空城の計(クウジョウノケイ) |
三国志演義に登場する計略。 漢中攻防戦の際、趙雲がわざと砦を無防備に見せて曹操軍を誘い込み、空堀に潜ませていた射撃隊で撃退した例がある。 また街亭の敗戦後、魏の司馬懿が大軍で急襲してきた際、諸葛亮は城門をわざと開け放ち、楼上で琴を奏で、敵を迎えるような姿勢を見せた。 司馬懿は伏兵の存在を恐れて撤退したという。 |
苦肉の計(クニクノケイ) |
自らの体を痛めつけ、あたかも他人に傷つけられたように見せて、敵の目を欺く計略。 敵をだますために、味方もだまして傷つけるため、固い団結力と演義力が必要とされる。 赤壁の戦いの前に、呉の都督・周瑜が味方の黄蓋に加えた激しい棒打ちの罰が有名。 この仕打ちを間諜から聞いた曹操は、黄蓋の寝返りを信じてしまった。 |
傾国(ケイコク) |
国王が夢中となって政務を忘れ国を傾けてしまうほどの美女の意味。傾城とも。 前漢の李延年が、妹を武帝の妃として推薦する際に詠んだ「一度振り向けば城が傾き、二度振り向けば国が傾く」の句に由来する。 三国志演義では、後に曹丕の妃となる甄姫の初登場の場面で、その美しさが「玉の肌、花の貌、傾国の色あり」と紹介されている。 |
鶏肋(ケイロク) |
鶏のあばら骨のこと。捨てるには惜しいが、価値があまりないものをいう。漢中攻防戦で曹操は「鶏肋」とつぶやく。 周りの者は理解できなかったが、楊脩のみ帰り支度を始め、 「鶏のあばら骨はだしが取れるので捨てがたいが、腹は満たされない。殿は漢中を鶏肋と判断したのでしょう」と述べた。 曹操は楊脩を不快に思い処刑した。 |
建安七子(ケンアンシチシ) |
建安年間に、曹操、曹丕のもとで活躍した7人の文士、孔融、陳琳、王粲、徐幹、劉楨らの総称。 曹操は戦争の合間でも詩を作り、息子の曹丕、曹植とともに文学を奨励した。 7人は文章の創作に励み、ついには建安文学を打ち立てる。 その作風は漢代までの儒教的思想を脱し、自由でさわやかなものであった。 |
皇叔(コウシュク) |
皇帝の叔父という意味。呂布討伐後、曹操と劉備は献帝に拝謁した。 その際、劉備は自らの祖先が漢王室の者であることを明らかにする。 献帝が皇室の系図を調べてみると、劉備は前漢の景帝の玄孫であり、献帝の父の世代にあたった。 献帝は劉備が叔父であることを喜び、親しみをこめて「皇叔」と呼んだ。 |
呉下の阿蒙(ゴカノアモウ) |
呉下とは呉の都下、阿蒙とは蒙ちゃんという意味。 呂蒙は戦に明け暮れ、学問をしなかったが孫権に学問の大切さを論されて発奮した。 その成長ぶりは魯粛を驚かせ、「もはや呉下の阿蒙にあらず」と言わしめた。 これに対し呂蒙は「士別れて三日、刮目してあい待す」と答え、こののち、魯粛はつつしんで呂蒙の言に耳を傾けるようになった。 |
五虎大将(ゴコタイショウ) |
漢中王に即位した劉備配下のうち、関羽・張飛・馬超・黄忠・趙雲という功績に秀でた5人の武将に贈られた将軍号。 虎のように勇猛な5人の将軍という意味で、正式な官職名ではない。 蜀書に彼ら5人の伝記がまとめられており、関羽・張飛が「虎臣」と呼ばれていたという記述などをヒントに「五虎大将」の将軍号が創作されたようだ。 |
五斗米道(ゴトベイドウ) |
「天師道」とも。太平道と並ぶ原始道教の一派で張魯の祖父・張陵が始めた。 病を癒し、義舎という無料宿泊所を開設し、民衆の支持を得た。入信の際に五斗の米を要求することから「五斗米道」と呼ばれる。 老荘思想と結びつき、5世紀に寇謙之が新天師道を確立。張魯の子孫は「張天師」として世襲され、道教の教主的存在となった。 |
呉の四姓(ゴノシセイ) |
呉郡の有力豪族である張・陸・朱・顧の4氏族を指す。 『世説新語』では、四姓の特徴について「張文、朱武、陸忠、顧厚」と評している。 四姓出身者の中でも顧雍・陸遜は孫呉の丞相となり、朱桓や張温らも活躍している。 呉の君主となった孫氏自体は弱小氏族であり、この地で政権を築いていくには彼ら有力豪族の助けが必要だった。 |
山越(サンエツ) |
荊州南部から揚州にかけての山間部に暮らし、漢王朝に従わなかった民族の総称。 三国時代以前からたびたび漢の支配に対して反乱していたが、孫策が江南に勢力を拡げたことで衝突が激化した。 孫呉政権は、毎年のように討伐を行い、黄蓋・周瑜・陸遜を始め、呂蒙・凌統・周泰など主立った将軍は、ほとんどが山越討伐で功績を挙げた。 |
三公(サンコウ) |
後漢王朝の行政長官として最上位にある3つの役職。司徒・司空・大尉を指す。 司徒は国家・人民の統括、司空は土木・水利の責任者、大尉は軍事の最高責任者を業務としたが、後漢では実権を外戚や宦官に奪われ、名誉職的な存在だった。 董卓が相国の職を復活させ、さらに曹操が司空の職を経て、丞相を設置し、三公を廃止した。 |
三顧の礼(サンコノレイ) |
重職にある者が人材を迎え入れるために何度も自ら赴くことを言う。 劉備が在野の諸葛亮を軍師に迎え入れるため、彼の草盧を三度訪れた、という故事から生まれた。 劉備の1、2度目の訪問は諸葛亮が留守で会えず、3度目の訪問でようやく対面となり、その志に感服した諸葛亮は「天下三分の計」なる戦略を説き、劉備の軍師となった。 |
死せる諸葛……(シセルショカツ……) |
「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」が全文。 五丈原の戦いで諸葛亮は病没し、大黒柱を失った蜀軍は静かに退却を始める。 この様子を見た魏の司馬懿は、自ら陣頭に立って追撃をする。 しかし、諸葛亮が生前に残した策にかかり、諸葛亮はまだ生きていると思い焦って引き返す。 死者の策により、生きている者が見事にだまされたのである。 |
七縦七擒(シチショウシチキン) |
三国志演義で諸葛亮が南征に赴き、孟獲と戦い7回捕らえて7回釈放し、ついには彼を心服させ南蛮を平定したという故事。 初めは捕らえられても抵抗した孟獲だが、7度目には諸葛亮を心から信頼し、二度と反乱しないと誓った。 逆に雲南の少数民族の間には、孟獲が諸葛亮を7回捕らえたという逸話が伝わるという。 |
七歩の詩(シチホノシ) |
曹操の死後、魏王を継いだ曹丕は、弟・曹植に警戒心を抱く。 曹植もまた身の危険を感じ、父の葬儀を欠席したが、孝に背くと激怒した曹丕は弟を呼び出すと、7歩歩く間に詩を作らなければ死罪にすると命じる。 曹植は「兄弟」を主題とした詩など2篇を瞬時に作詩した。曹丕も感動して涙を落とし、弟の処刑を断念したという。 |
小覇王(ショウハオウ) |
孫策の呼称。覇王とは、劉邦と天下を争った西楚の覇王・項羽のこと。 孫堅の戦死後、孫策は袁術に兵を借りて江東に進出しまたたく間に平定する。 人々はその威勢と武勇を項羽に例え、「江東の小覇王」と呼んだ。 なお、許貢は孫策に討たれる前に「孫策は英傑で、項羽と似ています。地方に放置すれば災いが起きましょう」と上奏した。 |
白波(シラナミ) |
日本で盗賊を意味する白波は、三国時代の「白波賊」が由来とされる。 188年、黄巾の残党が白波谷で決起した。その数は数十万といわれ、朝廷も討伐できなかったという。 のちの李傕と郭汜の争乱では、張承、楊奉らが献帝を守るため、もと白波賊の長である韓暹らに援兵を求めた。 諸侯が力をつけると討伐または吸収され力を失った。 |
人中の呂布……(ジンチュウノリョフ……) |
「人中の呂布、馬中の赤兎」が全文。武将の中で一番強いのは呂布、馬の中でもっとも優れているのは赤兎という意味。 呂布は腕力が強く、馬術や弓術に優れていたことから、漢の名将・李広と同じく「飛将」と呼ばれた。 また、赤兎も「一日で千里を走る馬」と絶賛された。呂布が赤兎にまたがる姿を、人々は畏敬の念をもって見たという。 |
水魚の交わり(スイギョノマジワリ) |
魚には水がなくてはならないことから、切り離すことができないほど親密な間柄をいう。 三顧の礼をもって諸葛亮を軍師に迎えた劉備は、若年の諸葛亮を師と仰ぎ、 日に日に信頼を深めたが、この劉備の態度は関羽ら古参の将には面白くなかった。 彼らの不満を感じ取った劉備は、自身を魚、諸葛亮を水に例え、なだめたという。 |
出師の表(スイシノヒョウ) |
「師」は軍隊を指し、転じて機を表す。南征を終えた諸葛亮は227年、劉禅に上奏文を奉り第一次北伐を敢行した。 「危急存亡の秋」という有名な言葉を含む本文には、蜀の現状や頼むべき臣を示し、魏を討つ決意が粛然と述べられている。 また、帝先・劉備に対する思いや劉禅に対する情も語られ、涙なくて読めないとされた。 |
青州兵(セイシュウヘイ) |
曹操軍の精鋭部隊の名称。曹操は青州の黄巾賊の反乱を鎮圧し数十万の降兵を得た。 その中の選りすぐりの者を「青州兵」と呼び、自軍に組み込んだ。 正史では青州の黄巾賊を「戦争経験が豊富で、兵はみな精悍」と評している。 以後、曹操は諸侯の中でも一歩抜きんでた存在となり、後世に「魏武の強、これより始まる」と言われた。 |
単于(ゼンウ) |
匈奴の族長が名乗る称号。匈奴は紀元前2世紀初めに勢力を広げるが分裂して衰退し、南匈奴の単于は後漢に服従した。 単于の一族で劉豹の子・劉淵は、晋から単于に封ぜられたのち漢王を称して晋を圧迫し、五胡十六国の混乱が始まる。 のちモンゴル高原を支配した民族・柔然は単于を「可汗」と改め「カアン(ハーン)」のもととなった。 |
禅譲(ゼンジョウ) |
皇帝の位に就く手段の1つ。皇帝は世襲が原則だが、王朝の交代などで帝位を継承する氏族が変わることがあり、易姓革命と呼ぶ。 革命には、前王朝を武力で倒す「放伐」と、徳のある人物が現れたとき皇帝が自ら譲り渡す「禅譲」の2種類がある。 曹丕は自らの正当性を保つために、神話時代以来行われていなかった禅譲を復活させた。 |
鮮卑(センピ) |
中国地方の遊牧民族。漢代には東胡と呼ばれ、紀元前209年頃、東胡は同じ遊牧民の匈奴に滅ぼされ、生き残った者が鮮卑山に籠もったことから、鮮卑という名がついた。 勇猛な民族性で騎射に優れ、歴代王朝とは争いと服従を繰り返した。 烏丸が曹操に滅ぼされると、離散した部族を吸収して遼東から西域までを支配した。 |
蒼天己死……(ソウテンスデニシス……) |
「蒼天己死、黄天當立、歳在甲子、天下大吉」が全文。黄巾の乱において黄巾賊の首領・張角が掲げた言葉。 漢朝(蒼天)に代わり、黄巾(黄天)が天下を治める、というもの。 五行説をもとに作られた言とされるが、火徳の後漢を表す色は「赤」であり、「蒼天」の表現には矛盾が生じる。 |
太平道(タイヘイドウ) |
黄巾の乱を起こした張角が率いる初期道教の教団。五斗米道と並び初期道教の源流。 南華老仙の作という『太平要術の書』を学んだ張角が、まじないで民の病を治して支持を得、急速に信者を増やした。 やがて張角は弟の張宝・張梁らに擁立され、漢王朝に対する反乱を計画する。 しかし、事前に情報が漏れたために準備不足のまま蜂起した。 |
天下三分の計(テンカサンブンノケイ) |
諸葛亮が三顧の礼に応え、劉備の軍師となるにあたって献策した戦略計画。 荊州をまず本拠として固めた後、益州の地を奪って割拠し、華北の曹操、江東の孫権との間に三勢力鼎立の均衝状態を作り出す。 そのことで国を安定させ、しかる後に天下統一への経略を図るという壮大な計画で、その後の劉備軍の行動指針になった。 |
天下二分の計(テンカニブンノケイ) |
呉の将・甘寧と魯粛が孫権に献じた策。孫策の死後、赤壁の戦い前に献策したとされる。 両者とも曹操勢力の動きを的確に分析したのち、江夏の黄祖と荊州の劉表を討ち、長江流域に領土を拡大すれば曹操に対抗できると進言した。 正史では、周瑜が赤壁の戦い後に、より具体的な二分の策を献じているが、周瑜の死により実行されなかった。 |
桃園の誓い(トウエンノチカイ) |
184年、劉備、関羽、張飛が張飛の家の裏にある桃園で結んだ誓い。桃園結義とも。 「生まれたときは違えども、願わくば同年同月同日に死せん」という言葉は有名。 これ以降、3人は義兄弟となり、天下の争乱に身を投じることとなる。 この誓いは演義における最初の名場面だが、正史に記述は見られない。 |
屯田(トンデン) |
曹操が韓浩らの進言により実施した食料生産制度。 漢代から行われてきた軍人の自給自足制度「軍屯」と比較し「民屯」とも呼ばれる。 相次ぐ戦乱で農村は荒廃し、流浪の民が溢れ、軍隊の食料も不足していた。 その問題を重く見た曹操は、流浪民、降兵などに荒れ地を分与して耕させた。 この試みは大成功を収め、食料の供給は安定した。 |
泣いて馬謖を斬る(ナイテバショクヲキル) |
規律を保つために私情を捨てて部下を処罰することをいう。北伐を起こした諸葛亮は漢中へ軍を進め、信頼する部下・馬謖に街亭守備を命ずる。 しかし馬謖は、諸葛亮の助言や副将・王平に諌めを聞かず山上に陣を置いて孤立し、魏軍に敗北する。 処罰軽減を嘆願する武将も多かったが、諸葛亮は私情を捨て、涙ながらに馬謖に死罪を命じた。 |
南中(ナンチュウ) |
西南夷と呼ばれる小数民族が住んでいた地域。益州の南部を指す。 インドや東南アジアからの珍しい物産が経由するので、戦略的にも重要な地とされた。 この地域に住む人々は、人並み外れた身体能力を持ち、猛獣や奇術を操るとされていたため、軽蔑と畏怖を込めて「蛮族」と呼ばれた。 南中王・孟獲は、七縦七擒により諸葛亮に心服した。 |
二張(ニチョウ) |
張昭と張絋の総称。2人とも早くから世に知られていたが、どの勢力にも仕官しようとはしなかった。 戦乱を避け江東に逃れていたときに、周瑜から噂を聞いた孫策に招かれる。 2人も最初は応じなかったが、孫策自らが彼らの家を訪ねると、ようやく仕官した。 その後、2人は主に政治面で非凡な才能を発揮し、孫家を繁栄させた。 |
白馬義従(ハクバギジュウ) |
公孫瓚が率いる騎馬隊の名称。騎射を得意とした強力な部隊。 公孫瓚は鮮卑や烏丸といった北方民族と戦うときには、いつも白馬に乗っていた。 彼は北方民族に対して圧倒的な強さを見せつけたため、北方民族は白馬を見るだけでも震えあがった。 そこで公孫瓚は白馬を数千頭集め騎乗が得意な者を乗せて「白馬義従」と名乗ったという。 |
白眉(ハクビ) |
蜀の臣・馬良のこと。弟の馬謖らと、襄陽の馬氏5人兄弟はいずれも優秀と評判で、「馬氏の五常」と呼ばれた。 中でも馬良は抜きんでた才略の持ち主で、劉備の求めに応じて仕官し、蜀漢の創業を助けて活躍した。 彼の眉毛に白髪が交じっていたために「白眉」と呼ばれており、「馬氏の五常、白眉もっとも良し」と評されたという。 |
美周郎(ビシュウロウ) |
呉の都督・周瑜の通称。「郎」はしばしば、男子の美称に用いられる。 揚州の名士である周瑜は、呉の人々から周郎(周家の若君)と呼ばれており、容貌も美しかったので「美周郎」が通称となった。 周瑜は若い頃から音楽にも精通していて、たとえ酔っていても、曲に些細な間違いがあると、演奏者の方を振り返ったという。 |
美髯公(ビゼンコウ) |
関羽の通称。関羽の長い髯を見た献帝が「美髯公」と呼んだのが始まりとされる。 関羽の髯はつややかで美しく、下腹にまで伸びていた。手入れも万全で、冬になると痛まないように錦の袋に入れていたという。 馬超が劉備陣営に加わった際、諸葛亮は関羽に「馬超殿は確かに英傑だが、髯殿の武勇には到底かなわない」と書き送っている。 |
伏龍(フクリュウ) |
今は寝ているが、ひとたび時機を得れば天にも昇る龍のこと。臥龍とも。 優れた能力がありながら、在野に潜んでいる大賢人の例え。 三国志においては、野に隠れ住んでいた諸葛亮を意味する。 ちなみに、諸葛亮を「伏龍」と名づけたのは、襄陽の龐徳公で、彼は諸葛亮とともに、甥の龐統のことも「鳳雛」と高く評価していた。 |
鳳雛(ホウスウ) |
劉備の軍師・龐統につけられた呼び名。 水鏡先生こと司馬徽の門下で英才と謳われながらも、いまだ時を得ず、仕える主君を持たなかった時期に、諸葛亮の「伏龍」と並び称された。 鳳雛(伝説上の巨大な瑞鳥)に例えられるほどの才能を持ちながらも、まだヒナの状態で才能を発揮できていないという意味。 |
饅頭(マントウ) |
「まんじゅう」とも読む。包子の1種。小麦粉を練った皮の中に牛肉・豚肉などの餡を詰めて蒸した料理。 諸葛亮が南蛮王・孟獲を征伐した帰路、通りかかった瀘水で、氾濫を防ぐため川の神を祭っていた。 そこで、いけにえとして人の頭を神に供える悪習があったが、これを改めさせるために饅頭を発明したとの伝承がある。 |
木牛・流馬(モクギュウ・リュウバ) |
第五次北伐の際に、諸葛亮が発明した運搬用具。木牛は人力の四輪車、流馬は手押しの一輪車とされる。 牛や馬と違い、餌をやらなくても大きな荷物を運べるため、非常に有効な輸送手段とされた。 なお、木牛・流馬の細かい寸法は今日に残されているが、その説明が難解なため正確な形態は判明していない。 |
洛神の賊(ラクシンノフ) |
222年、曹植が洛水を訪れたときに作ったとされる詩文。 洛水に住む美しき女神との出会いに始まり、曹植の女神に対する想いがつづられ、2人の出会いが遅すぎたことや人と神とは結ばれないという運命を嘆いて終わる。 甄姫が死を賜ったことや曹丕と曹植の間が不仲だったことから、文中の女神は甄姫であるという風説が流れた。 |
連環の計(ケンカンノケイ) |
兵法三十六計の1つ。敵同士が足をひっぱりあうようにして、弱らせ破滅させる計略。 王允は貂蝉を使って「美女連環の計」を仕掛け、董卓と呂布を仲違いさせた。 また、赤壁の戦いの直前、龐統は足場の安定のため船を鎖で結ぶ「連環の計」を曹操に勧める。 その真意は曹操軍の動きを封じ、火計の成功を確かなものとすることにあった。 |
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