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武将辞典【蜀】
真・三國無双6攻略 武将辞典【蜀】を掲載しています。伊籍(イセキ) |
??? 字は機伯。 蜀の臣。もと劉表の幕客で、的盧の凶相が乗り手に祟るという逸話を劉備に話す。 蔡瑁が劉備暗殺を謀ったときは劉備に危機を伝え逃亡させた。 劉表没後、劉琮が曹操に降伏すると、劉備に仕え、関羽とともに荊州を守る。 弁舌に優れ使者としての応対を孫権に感心された。諸葛亮らと蜀科(蜀の法律)を作る。 |
尹賞(インショウ) |
??? もとは魏の将で、天水郡の主簿。 姜維と親交があり、諸葛亮の第一次北伐の際に姜維が蜀へと降ったため、自らも天水城の門を開いて降る。 この功で、諸葛亮に冀城の県令に任じられた。 |
閻宇(エンウ) |
??? 字は文平。 蜀の将。右将軍。宦官の黄皓に媚びて劉禅に自らを売り込み、北伐中の姜維に取って代わって手柄を立てようとする。 劉禅は「鄧艾に対抗できるのは姜維のみ」として却下したという。 |
王含(オウガン) |
??? 蜀の将。姜維の北伐に参加し、蒋斌とともに左翼を固める。坑道を通じて鄧艾の夜襲を受け、陣地を失ったが姜維に敗戦の罪を問われることはなかった。 のち楽城を守備したが、漢中の失陥を知り、鍾会に降伏する。 |
王嗣(オウシ) |
??? 蜀の将。昇進して西安囲督、汶山太守となり、安遠将軍の位に就いた。 人情に篤く、領内の羌族の信頼を得ていたために、姜維が北伐の軍を起こすと、自発的に物資が集まった。 北伐従軍中、流れ矢に当たり、その傷が元で死亡した。領民は皆嘆き悲しんだという。 |
王平(オウヘイ) |
??248 字は子均。 蜀の将。もとは魏の将軍だったが、漢中攻防戦の際に徐晃と対立し蜀に降った。南征、北伐で活躍。 街亭には馬謖の副将として参陣し敗勢の中で善戦した。 |
王甫(オウホ) |
??219 字は国山。 蜀の将。関羽の樊城攻めを補佐した。 荊州守備の人事について忠告するが、関羽はこれを聞き流したため、傅士仁らの降伏を招いてしまう。 荊州が呂蒙に奪われると、関羽とともに麦城に籠もった。 関羽父子が脱出を図った際、周倉とともに麦城に残るが、関羽父子の死を知ると降伏を拒んで櫓から身を投じた。 |
王林(オウリン) |
??? 蜀の将。曹爽率いる魏軍が蜀に迫ると、興勢に進出してきた司馬昭の軍勢に夜襲を仕掛ける。 司馬昭の守りは固くて破れず、大敗して退却した。 |
霍峻(カクシュン) |
178?? 蜀の将。もと劉表配下の将で、成都制圧戦の最中、孟達に推挙され、劉備に仕える。 孟達とともに葭萌関の守備に当たり、当時張魯の幕下にいた馬超の攻撃を寡兵で防いだ。 曹操との漢中攻防戦でも葭萌関を守護。黄忠と厳顔が来援するまで、張郃の攻撃を防いだ。 |
霍弋(カクヨク) |
??? 字は紹先。 蜀の将。霍峻の子。永昌太守であった頃、異民族の反乱鎮圧に活躍し、建寧太守に栄転した。 蜀滅亡の報に接し、成都の方角を向いて喪に服し、三日間泣き続ける。 殉死も辞さぬ覚悟であったが、洛陽の様子を調べると劉禅が礼遇されているのを知り安堵して降伏に転じた。 |
関彝(カンイ) |
??? 蜀の臣。関興の子。関統の異母兄弟。関統に子がなかったため漢寿亭候の爵位を継いだ。 蜀が滅亡したのち、鍾会の反乱に乗じて、魏の将・龐会に殺害された。 龐会は、かつて関羽に斬られた龐徳の子で、仇討ちだったともいわれる。 |
関羽(カンウ) |
162?219 字は雲長。 蜀の将。五虎大将の筆頭に挙げられる。劉備、張飛と義兄弟の契りを結び、蜀の建国に尽力した。 義理堅いうえ武勇に優れ、「兵一万に匹敵する」と評される。長い髭を帝に「美髭公」とほめられ、通称となった。 |
関興(カンコウ) |
??234 字は安国。 蜀の将。関羽の次男。劉備が呉征伐の軍を起こすと、これに参加し、張苞と義兄弟となる。 呉の潘璋を討ち、父の青龍偃月刀を奪い返した。 のち諸葛亮の北伐にも参加し、西羌軍との戦いでは越吉を斬るなど活躍した。 |
関索(カンサク) |
??? 蜀の将。関羽の三男。荊州が陥落した際に負傷して、鮑家荘に逃れて静養する。 諸葛亮の南蛮征伐の直前に、蜀に戻って先鋒となり、計略によって孟獲を捕らえた。 |
関平(カンペイ) |
??219 蜀の将。河北に住む庶民・関定の次男だったが、関羽に才を見込まれ養子となる。 主君・劉備が蜀に入ると、関羽とともに荊州の守備を任される。 のち荊州は魏と呉の挟撃を受け、陥落必至の危機に陥るが、決して関羽の側を離れず、魏呉両軍と激戦を繰り広げた。 |
簡雍(カンヨウ) |
??? 字は憲和。 蜀の臣。劉備と同郷の出。義勇軍時代から随従して、使者や参謀役として活躍。 入蜀後は昭徳将軍に任ぜられた。豪放な性格だった。 |
魏延(ギエン) |
??234 字は文長。蜀の将。劉表配下だったがその死後、劉備に降った。 このとき、反骨の相があるとして諸葛亮が反対するも劉備は受け入れ重用した。 のち、五虎大将に次ぐ猛将として活躍。北伐の際には蜀の主力として参戦した。 |
姜維(キョウイ) |
206?264 字は伯約。 蜀の将。はじめ魏に属すが、北伐に赴いた諸葛亮に見込まれ、計略によって蜀に降る。 諸葛亮に心服した姜維は、後継者として深く信任され、兵法のすべてを託される。諸葛亮亡き後、その遺志を果たすべく北伐を繰り返した。 |
鞏志(キョウシ) |
??? 蜀の将。元は金旋の配下。劉備が南荊州を制圧しようと武稜に侵攻してくると、金旋に降伏を勧めたが怒りを買い、斬られそうになる。 金旋が無謀にも張飛に挑み、大敗して城に戻ると、金旋を城門前で射殺し、蜀に降伏した。劉備から、金旋亡き後の武稜太守に任ぜられた。 |
許靖(キョセイ) |
??222 字は文休。 劉璋の配下。蜀郡の太守を務める。成都へ追い詰められた劉璋に劉備軍が降伏を勧告すると、余人に先んじて城外の劉備軍に投じた。 劉璋の降伏後、劉備に左将軍として仕え、劉備が漢中王となると太傅に、蜀の皇帝となると司徒に任ぜられる。 |
郤正(ゲキセイ) |
??278 字は令先。 蜀の臣。第一次北伐に向かう諸葛亮に代わって成都の政務を担当する。姜維の北伐では、羌族の迷当大王の元へ使者となり、味方につけた。 魏の侵攻が成都に迫ると、諸葛亮の子・諸葛瞻の起用を進言する。蜀の降伏後は、劉禅の従者として洛陽に送られた。 |
月英(ゲツエイ) |
??? 諸葛亮の妻。黄承彦の娘。天文から地理・兵法と広く学問に通じ、諸葛亮を陰で支えた。 諸葛亮の死後、あとを追うように世を去る。 醜女と言われていたが、諸葛亮はその賢明さを伝え聞いて妻にと求めた。 一説では、世を欺くため醜女を装ったが実は美女だったともいわれる。 |
厳顔(ゲンガン) |
??? 蜀の将。劉璋配下として巴郡を守備した。張飛と戦い捕らえられるが、張飛の対応に感じ入って帰順する。 のち、漢中攻略戦で黄忠とともに戦って活躍した。 |
呉懿(ゴイ) |
??237 字は子遠。 蜀の将。劉璋の義兄で、呉班の族兄。 劉備が蜀に侵攻したとき劉循、呉蘭、雷銅とともに雒城の張任らを救援するが、趙雲に捕らえられ臣従。 未亡人の妹が劉備の后となり、劉永と劉理を生んだため厚遇される。 諸葛亮の北伐に参加し、諸葛亮の死後は車騎将軍に任ぜられ、漢中を守った。 |
黄権(コウケン) |
??240 字は公衝。 劉璋の幕僚。劉備の入蜀に強硬に反対し、劉璋を諌めるが無視された。 劉備が益州を取ると、再三の要請に出仕し、右将軍に任ぜられる。 夷陵の戦いでは水軍を任されたが、敗北後に退路を断たれ、呉に降るのを潔しとせず、魏に投降。 魏で鎮南将軍に任ぜられ、のちに車騎将軍・儀同三司にいたった。 |
黄皓(コウコウ) |
??264 蜀の臣。劉禅の寵愛を受け、権勢を欲しいままにした宦官。魏から賄賂を受け、姜維の北伐をたびたび邪魔した。 魏が大軍を率いて蜀攻略に乗り出すと、巫女の神託を聞かせて劉禅を欺いた。成都に魏軍が迫るに及んでもその情報を隠し、蜀を滅亡に追い込んだ。 のち洛陽で司馬昭に惨殺されたという。 |
高翔(コウショウ) |
??? 蜀の将。右将軍。諸葛亮の北伐に従軍する。剣閣から ![]() のち諸葛亮の策で、魏軍に木牛・流馬をわざと奪わせた。 |
黄崇(コウスウ) |
??263 蜀の将。黄権の子。成都に迫る魏軍を迎え撃つべく、諸葛瞻の下で綿竹を防衛する。 諸葛瞻・諸葛尚の親子が呉の援軍を待ちきれずに城から打って出て戦死すると、張遵・李球とともに死力を尽くして戦った。 鄧艾率いる魏軍に兵数で押し切られ、三人は戦死。綿竹は落城した。 |
黄忠(コウチュウ) |
??222 字は漢升。 蜀の将。弓の名手で、百発百中の腕を誇った。劉表、韓玄に仕え、韓玄の配下として関羽と激闘を演じた。 のちに劉備に帰順し、益州や定軍山の戦いで活躍する。劉備の漢中王即位に伴い、五虎大将に任命された。 |
高定(コウテイ) |
??? 蜀の臣。劉備の死後、南蛮王・孟獲の呼びかけで、雍闓と朱褒とともに蜀に反乱し、永昌郡を攻める。 南征に赴いた諸葛亮の離間の計にかかり、雍闓と朱褒を討って蜀に投降し、益州太守に任ぜられた。 |
句扶(コウフ) |
??? 字は孝興。 蜀の将。多くの戦いに従軍し、その戦功により左将軍の位まで上った。忠義に篤く寛容な性格で、武略に優れていたという。 のち、張翼・廖化が大将軍に任じられた際、「前に王平・句扶あり、後に張翼・廖化あり」と人々は四人を並び称した。 |
胡済(コセイ) |
??? 字は禕度。 蜀の将。第一次北伐から諸葛亮に幕僚として従う。のち姜維の北伐にも参加し、後詰めとして漢寿城の守将を務めた。 魏の鍾会の攻撃はしのげず、城外に脱出し、成都に援軍を求める。正史によると、諸葛亮に高く評価され、諸葛亮の死後も軍の要職を歴任したという。 |
胡忠(コチュウ) |
??? 蜀の将。諸葛亮の下、北伐に加わる。木牛・流馬の製造に従事する大工を諸葛亮の命で杜叡とともに指揮した。 葫蘆谷という出入り口の狭い谷に大勢の大工を集め、諸葛亮の設計図どおりに完成させる。 馬岱が谷の出入り口を監視し、情報が漏れないよう徹底した。 |
胡班(コハン) |
??? 滎陽太守・王植の従事。胡華の子。劉備のもとへ帰ろうと関を訪れた関羽を、焼き討ちするよう王植に命じられる。 しかし、関羽の人物に敬服した胡班は関羽を逃がした。のち、荊州に移って関羽に仕官した。 関羽が五虎大将に任ぜられると、関羽の代理で成都に赴き、爵位を受け取った。 |
呉班(ゴハン) |
??234 字は元雄。 蜀の将。何進の部将・呉匡の子で、呉懿の族弟。 張飛が范疆と張達に殺されると、呉討伐戦では先鋒となり、緒戦に勝利。 夷陵で孫桓を包囲したが、劉備が陸遜に大敗したため撤退する。後将軍として、諸葛亮の北伐に参加。 呉懿とともに魏軍の浮橋を焼き討ちするよう命じられるが張虎と楽綝に討たれた。 |
呉蘭(ゴラン) |
??218 蜀の将。劉璋配下だったが劉備の入蜀後に帰順した。馬超に従って漢中の対魏戦で活躍する。 斜谷の戦いで曹操の子・曹彰と戦って、斬られた。 |
沙摩柯(シャマカ) |
??? 五谿蛮の王。劉備の呉討伐に協力し、呉の猛将・甘寧を弓で射殺した。 火攻めに遭い敗走していたところへ呉将・周泰の追撃を受け、斬り殺された。 |
周韋(シュウグン) |
??? 字は仲直。 劉璋の配下。劉備が成都を制圧すると、他の文官、武将たちとともに降伏し、重職に留め置かれた。 正史によると、自然や出来事から未来を読み取る術を父より学び、吉凶を予言したといわれる。 |
周倉(シュウソウ) |
??219 もと黄巾賊の大将。臥牛山で山賊をしていたところ、崇拝していた関羽と出会い、その片腕となった。 水練にも長じている豪傑。ただし正史には登場しない。 |
習珍(シュウチン) |
??? 蜀の将。昭陵太守。荊州を攻める呉軍と戦うが、関羽が討たれ荊州の大半が呉の手中に落ちると、弟・習宏の勧めに従い、反乱の準備をした上で呉に降る。 のち劉備が関羽の仇討ちのために夷陵に進軍すると、呼応して挙兵したが、かつて蜀の臣だった潘濬に鎮圧された。 子・習温は潘濬に命を助けられ、呉に属したという。 |
蒋琬(ショウエン) |
??246 字は公琰。 蜀の将。劉備の書記として仕官し、のち参軍となって諸葛亮を補佐、成都制圧戦や南蛮征伐に従軍した。 北伐では成都に残って内政に専念し、前線の諸葛亮を助ける。諸葛亮の死後、後事を託され、蜀の国政を担った。 |
譙周(ショウショウ) |
200?270 字は允南。 劉璋の配下。劉備入蜀時、劉璋に降伏を進言。劉備に出仕後は皇帝即位に尽力した。 諸葛亮や姜維による盛んな北伐を、天文を見て不吉と諌めたが聞き入れられることはなく、自らは成都の内政に専心。 のち魏の大軍が攻め寄せると劉禅とともに降伏し、洛陽に移送された。 |
蒋舒(ショウジョ) |
??? 蜀の将。姜維から信頼され、漢中の軍事を統括。のちに傅僉の副将として陽平関を守る。 魏の鍾会が攻め寄せた際、傅僉に守りを固めるよう進言したが用いられなかったため、傅僉が鍾会の挑発に乗って出撃している間に降伏した。 |
向寵(ショウチョウ) |
??240 蜀の将。向朗の兄の子。諸葛亮の「出師の表」に登場。 軍事に明るく、劉備からも評価されていたので、都督に推挙された人物と紹介される。 諸葛亮が北伐に出発すると、御林軍(近衛)の総督として成都の守りについた。 正史によると、漢嘉郡の異民族を討伐中に戦死した。 |
蒋斌(ショウヒン) |
??? 蜀の将。姜維の北伐で、王含とともに左翼に属して、鄧艾軍と戦った。坑道を使った鄧艾の夜襲に大敗、退却する。 その後、漢城を守るが、漢中が魏軍に奪われると、戦意を喪失して投降した。 正史では、蒋琬の子で、鍾会に降伏したのち、成都で鍾会が反乱すると殺害されたといわれる。 |
向朗(ショウロウ) |
168?247 字は巨達。劉備配下の臣。劉表に仕えていたが、劉表死後、劉備に帰順した。 成都制圧戦で苦戦する劉備を諸葛亮が救援した際、荊州に残って関羽を補佐するよう命じられた。 正史によると、司馬徽に師事し、徐庶・韓嵩・龐統らと親しかったという。 |
諸葛均(ショカツキン) |
??? 諸葛珪の子。諸葛瑾、亮の弟。父が早く死んだため、兄とともに叔父の諸葛玄を頼る。 諸葛玄の死後、諸葛亮とともに臥龍岡の草盧で暮らした。 諸葛亮が三顧の礼で劉備に仕えることになると草盧の管理を任された。蜀に仕えて長水校尉となった。 |
諸葛京(ショカツケイ) |
??? 字は行宗。 蜀の将。諸葛瞻の次男で、母は劉禅の娘とされる。 諸葛瞻と兄の諸葛尚が綿竹で魏軍と戦って戦死し、蜀が滅亡すると、遠縁の諸葛顕ら一族とともに河東に移住させられた。 晋の時代には司馬炎に取り立てられて仕え、江州刺史の位を得た。 |
諸葛珪(ショカツケイ) |
??? 字は子貢とされる。 後漢の臣。諸葛亮の父。前漢の時代、司隷校尉であった諸葛豊の子孫とされる。泰山郡で丞の位を得たが若くして死亡した。 子の諸葛瑾は魯粛に才を見出され、五の重鎮となり、またその弟・諸葛亮は劉備に仕え、丞相となって蜀を支えた。 |
諸葛玄(ショカツゲン) |
??? 後漢の将。諸葛亮の叔父。兄・諸葛珪が没した際、まだ幼かった諸葛亮・諸葛均を引き取って育てた。 皇帝を僣称する袁術から豫章太守に任命されたが、同時に献帝が別人を豫章太守に任じたため争いとなる。 旧知の友であった劉表を頼り、諸葛亮らを連れて荊州へ移った後、死んだとされる。 |
諸葛質(ショカツシツ) |
??? 蜀の将。諸葛瞻の三男といわれる。劉禅の六男・劉恂の配下。劉恂は劉禅に逆らって魏への降伏を拒否し、南中の王・孟虬を頼って南に落ち延びる。 孟虬を説得する役目を務め、劉恂を庇護させることに成功した。以降は劉恂とともに、南中県の水昌あたりで隠遁生活を送ったとされる。 |
諸葛尚(ショカツショウ) |
245?263 蜀の将。諸葛瞻の長男で、母は劉禅の娘とされる。成都を目指す魏の大軍を綿竹で迎え撃ち、諸葛瞻に続いて先鋒を買って出た。 衆寡敵さず次第に敗色濃厚となり、呉に救援を求めたが呉軍がたどり着く前に諸葛瞻が魏の伏兵に遭って戦死。 激昂の余り、張遵らの制止も聞かず、打って出て乱戦に散った。 |
諸葛瞻(ショカツセン) |
227?263 字は思遠。 蜀の将。諸葛亮の子。母は月英とされる。蜀に攻め寄せた魏の大軍を防ぐため、長男・諸葛尚らとともに出撃。 綿竹で鄧艾率いる魏軍と対峙した。緒戦では諸葛亮の木像を作って魏軍を動揺させ大勝するものの、兵数で勝る魏軍に押される。 敵の挑発に乗って出撃したところを包囲され、戦死した。 |
諸葛亮(ショカツリョウ) |
181?234 字は孔明。 蜀の丞相。「臥龍」の異名を持つ。 三顧の礼に応えて劉備に仕え、「水魚の交わり」と例えられるほど劉備から信頼された。 外交と内政に非凡な才能を発揮して、蜀の建国に多大な貢献をした。 |
星彩(セイサイ) |
??? 張飛の娘。才知に富み、父譲りで武勇にも優れる。幼い頃から破天荒な父を見てきたためか、若い割には達観している。 劉備の嫡子・劉禅や、関羽の養子・関平らとともに、蜀の次代を担う若き力として、活躍を期待されている。 |
宗預(ソウヨ) |
??264 字は徳豔。 蜀の臣。諸葛亮の死後まもなくして呉が大軍を興し、蜀に近い巴丘に派遣したため、劉禅の命で呉の狙いを探る使者となる。 孫権や呉の諸将と堂々と渡り合い、蜀を攻める気がないという真意を孫権から引き出し、蜀に帰還。劉禅に報告した。 |
孫乾(ソンケン) |
??214 字は公祐。 劉備配下の臣。陶謙が死に際し補佐役として劉備に推薦した。 参謀役、外交官として、流浪時代の劉備を助けた。劉備入蜀後は、糜竺に次ぐ待遇を受けた。 |
卓膺(タクヨク) |
??? 劉備配下の将。もとは劉璋配下で、雒城の戦いで張任が捕らわれたのを知って降伏。 劉備の蜀平定後は、張飛とともに巴西の守備に赴いた。 正史によると劉備が劉璋と開戦した際、黄忠と卓膺に兵を与えて劉璋に向かわせたとあり、元から劉備配下であったようだ。 |
趙雲(チョウウン) |
??229 字は子龍。 蜀の将。袁紹、公孫瓚に仕えるが、劉備の人柄に惚れ込み臣下となる。 豪胆かつ勇猛な士で、長坂の戦いでは百万の大軍を相手に単騎で斬りこみ、劉備の嫡子・阿斗を救い出した。 のち蜀の五虎大将に数えられる。 |
張嶷(チョウギョク) |
??256 字は伯岐。 蜀の将。諸葛亮の南蛮征伐時、孟獲の妻・祝融との戦いで飛刀を受けて捕らえられた。諸葛亮と姜維の北伐で活躍する。 段谷で鄧艾に包囲された姜維を身を挺して救出し、自身は矢を浴びて戦死した。 正史によると、南中の異民族の融和的統治に功があり、異民族はその死を惜しみ廟を建てて祀ったという。 |
趙広(チョウコウ) |
??? 蜀の将。趙雲の次男で、趙統の弟。 諸葛亮の第二次北伐の直前に趙雲が死ぬと、諸葛亮に訃報を伝える。 劉禅から牙門将に任ぜられ、兄とともに趙雲の墓を守るよう命じられた。 正史によると姜維に従って沓中で屯田しのち前線で戦死したという。 |
張遵(チョウジュン) |
??263 蜀の臣。尚書を務める。諸葛瞻とともに綿竹城を守り、魏軍の鄧艾と戦う。 援軍を待つ中、痺れを切らした諸葛瞻、諸葛尚らが無闇に打って出て戦死するのを制止できなかった。 魏の大軍の前に敗死する。正史によると張苞の子で、張飛の孫にあたるという。 |
張紹(チョウショウ) |
??? 蜀の臣。張飛の次男。張飛が殺害された後、兄の張苞が遺体を奪還して劉備のもとに送り届けるまで閬中の守りを固めた。 のち魏軍が成都に迫ると、譙周、鄧良とともに劉禅からの使者となり、玉璽を鄧艾に届け、降伏を申し入れる。劉禅が洛陽に移されると、同行を命じられた。 |
趙直(チョウチョク) |
??? 蜀の臣。行軍司馬を務める。占術に長けていた。諸葛亮が死んだ後、魏延は頭に角が生える夢を見た。 見た夢の吉凶を魏延に問われると、大凶であることを見抜いたが、「麒麟や龍も頭に角があるので、飛躍できる吉祥です」とごまかした。 |
趙統(チョウトウ) |
??? 蜀の将。趙雲の長男で、趙広の兄。 諸葛亮の第二次北伐の直前に弟の趙広とともに諸葛亮を訪ね、父の趙雲が病死したことを伝える。 劉禅から虎賁中郎に任ぜられ、趙広とともに趙雲の墓を守るように命じられた。 正史によると、趙雲の後を継ぎ、督行領軍まで昇進した。 |
張飛(チョウヒ) |
168?221 字は翼徳。 蜀の将。五虎大将の1人。劉備、関羽と義兄弟の契りを結ぶ。 酒が好きでそのために酔って失敗することも少なくなかった。 長坂の戦いでは、単騎で長坂橋に仁王立ちし大喝一声して、曹操軍百万の追撃を退けた。 |
張苞(チョウホウ) |
??229 蜀の将。張飛の長男。張飛の死ののち、形見の蛇矛を持って参戦し、関興と義兄弟となる。呉の謝旌を討ち、初陣を飾った。 のち北伐にも参加したが、 ![]() |
張翼(チョウヨク) |
??264 字は伯恭。 蜀の将。劉璋配下だったが劉備に降伏し、南征、北伐では一軍を率いて活躍した。 車騎将軍・夏侯覇の死後、位を廖化と分け与えられて、左車騎将軍となる。 |
趙累(チョウルイ) |
??219 蜀の将。関羽の配下として樊城攻めに加わる。 同じく関羽配下の臣・王甫は「誠忠廉直の士なので潘濬に替えて荊州の守りにつかせるべき」と進言したが、関羽は手元に置いた。 樊城攻略中に荊州を呉に奪われ、進退窮まると関羽らと一旦麦城に拠る。さらに西川に逃れようと麦城から脱出後、呉軍に囲まれ戦死した。 |
陳祗(チンシ) |
??? 字は奉宗。 蜀の臣。許靖の親戚で許靖に引き取られ養育される。天文や占いなど多芸に優れ、それを費禕に評価されて劉禅の側近となった。 しかし宦官の黄皓と結託し暴政を敷いた。死後に諸葛亮らとともに諡号を追贈された。 |
陳寿(チンジュ) |
233?297 字は承祚。 蜀の臣。譙周の弟子として劉禅に仕える。黄皓に逆らい、閑職に追いやられた。職の滅亡後、晋の臣・張華にその才を買われて推挙され、司馬炎に仕える。 歴史家として、晋の将・杜預ら多くの識者から高く評価され、『三国志』『諸葛亮集』などり書物を著した。 |
陳式(チンショク) |
??230 蜀の将。定軍山で捕虜となるが、夏侯尚と交換で陣へ戻る。 第三次北伐で魏軍の追撃に失敗し、敗戦の責任を問われて処刑された。 「三国志」の著者・陳寿の父という説もある。 |
陳震(チンシン) |
??235 字は孝起。 蜀の臣。もと袁紹配下。劉備が袁紹の客将であったとき、劉備の手紙を関羽のもとへ届けた。 袁紹敗北後、劉備が荊州牧になると召し出されて従事となる。 諸葛亮の「出師の表」において郭攸之、費禕、張裔、蒋琬らと並んで忠義に篤い人物と評される。 孫権が帝位に就いたとき、祝賀の使者として呉を訪れた。 |
陳到(チントウ) |
??? 字は叔至。 蜀の将。劉備が豫州を支配した頃から仕える。名声官位は常に趙雲の次にあり、ともに忠節勇武を称えられた。 劉禅が即位すると、永安都督、征西将軍となる。諸葛亮の北伐に際しては、李厳の指揮下で永安を守った。正史にのみ登場する。 |
董允(トウイン) |
??246 字は休昭。 蜀の臣。劉備・劉禅に仕え、特に内政にその手腕を発揮した。諸葛亮に信頼され、北伐中の宮中を郭攸之・費禕とともに任される。 諸葛亮が五丈原で病死した後も、劉禅を支えた。正史では、劉禅に近侍し、宦官・黄皓を重用しないよう再三にわたって進言している。 |
董和(トウカ) |
??? 字は幼宰。 蜀の臣。董允の父。劉璋のもとで益州太守を務め、劉備が蜀を攻撃すると張魯に加勢を求めるよう進言。 劉備が成都に迫る間も徹底抗戦を主張したが。劉璋は降伏した。 劉備が益州牧となると掌軍中郎将に取り立てられ諸葛亮の片腕として補佐する。 |
董厥(トウケツ) |
??? 字は龔襲。 蜀の臣。諸葛亮の南征や北伐に幕僚として同行した。魏の大軍が攻め寄せると、輔国大将軍として兵を率い、姜維らとともに剣閣を守る。 成都が陥落すると降伏した。蜀滅亡後は野に下り失意のうちに病死する。 |
鄧芝(トウシ) |
??251 字は伯苗。 蜀の臣。もとは劉璋の配下で、劉璋が劉備に降ると、劉備に仕えて尚書となる。 劉備の死後、呉との同盟の使者となり、孫権と面会。 煮えたぎった大釜で脅かそうとする孫権を論破して関係修復に成功し、孫権に高く評価された。 第一次北伐では趙雲とともに先鋒として一軍を率いその後も北伐に参戦した。 |
鄧良(トウリョウ) |
??? 蜀の臣。駙馬都尉を務める。魏の鄧艾が蜀討伐軍を率いて成都に攻め寄せた際、劉禅に命じられ、譙周、張紹とともに玉璽を鄧艾へ届け、降伏を申し出る。 鄧艾に歓待されたのち、降伏受け入れの返書を持って、劉禅に復命した。 |
杜叡(トエイ) |
??? 蜀の将。諸葛亮の北伐に参加した。諸葛亮の命を受け、木牛・流馬の製作を胡忠とともに監督する。 出入り口が一つの谷で、千人以上の大工に秘密裏に作業させた。馬岱が谷の出入り口を監視した。 |
杜祺(トキ) |
??? 蜀の将。諸葛亮の第一次北伐に従軍。のちに姜維の下で活躍して武略中郎将に上った。 正史では、王連によって呂乂、劉幹らと推挙されて劉備に仕え、のちに魏の曹爽が大軍を率いて攻めてきた際は、王平の配下として劉敏とともに興勢山を守った。 |
寗随(ネイズイ) |
??? 蜀の将。成都を目指す魏の軍を姜維の副将として迎え撃った。 沓中で鄧艾・諸葛諸の軍に挟撃されて進退窮まると、諸葛諸の所領・雍州を攻めるふりをして諸葛諸を退かせる策を練った。 陽動された諸葛諸が引き返すとその隙に背後を抜けて、剣閣まで軍を撤退させた。 |
馬謖(バショク) |
190?228 字は幼常。 蜀の将。馬良の弟。諸葛亮に才能を買われるが、劉備には「大事を任せられぬ」と評される。 南征で参謀役として活躍したが、北伐で命令に背いて大敗を招き、諸葛亮に処刑された。 |
馬岱(バタイ) |
??? 蜀の将。馬超の従兄弟。馬騰の兄の子。潼関の戦いで曹操に敗北した後、各地を転戦。 最後は馬超とともに劉備に帰順した。南征や北伐では軍を率いて活躍する。 諸葛亮の死後、造反した魏延を討ち取った。 |
馬超(バチョウ) |
176?222 字は孟起。 馬騰の長男。その武者振りの見事さから「錦馬超」の異名を持つ。 父の仇・曹操を討つべく西涼の兵を率いて長安を襲うが、敗れる。のち劉備に帰順。 漢中攻略などで功を挙げ、五虎大将の一人に数えられた。 |
馬邈(バハク) |
??? 蜀の将。魏軍に備え江油に駐屯したが、蜀の滅亡は免れないと悲観し、防備を怠った。 鄧艾率いる魏軍が攻め寄せると即座に降伏し、蜀の詳しい地図を献上して成都への案内役を買って出る。 夫の不忠ぶりを恥じた妻・李氏は自害したという。 |
馬良(バリョウ) |
187?225 字は季常。 蜀の臣。「白眉」の異名を持つ俊才。弟の馬謖とともに劉備に仕える。 荊州を預かる関羽のもとで、内政を補佐。夷陵の戦いでは、陣の図面を諸葛亮に届けた。 |
樊建(ハンケン) |
??? 字は長元。 蜀の臣。諸葛亮の南征や第一次北伐に幕僚として従軍する。 諸葛亮が五丈原で没した直後、姜維は局地的な勝利で勢いづき成都に戻るべきとの進言を採用しなかった。 結果的に、蜀軍は鄧艾の軍に大敗する。蜀滅亡後に劉禅とともに洛陽に送られ、侯爵に封じられた。 |
潘濬(ハンシュン) |
??239 字は承明。 蜀の臣。樊城の戦いの際、荊州の留守を務めるが、関羽配下の臣・王甫に「私利私欲に走る小人物」と評されている。 呂蒙率いる呉軍に急襲され、抵抗を試みずに荊州を明け渡した。その後は孫権に仕えて重用され、引き続き荊州を統治した。 |
樊友(ハンユウ) |
??? 蜀の将。宜都太守。樊城の戦いの際、魏と手を組んだ呉が荊州に攻め寄せると、陸遜率いる呉軍を前に戦いもせず逃亡する。 これを見た他の将兵は次々と呉に降り、宜都は労せずして呉の支配下となった。陸遜は勢いに乗って房陵・南郷も落として荊州を手に入れ、関羽の逃げ場を奪った。 |
費禕(ヒイ) |
??253 字は文偉。 蜀の侍中。もとは劉璋の配下。諸葛亮が北伐に出る間、成都に残って内政を支えた。 諸葛亮臨終の際に、「自分の後継を蒋琬に、その後は費禕に」と指名され、引き続き成都を守った。 正史では、後年、魏からの降将に宴席で斬られたとある。 |
費観(ヒカン) |
??? 字は賓伯。 益州牧・劉璋の妻の弟。雒城を落とした劉備を綿竹で待ち受ける。費観は李厳を迎撃に出すが李厳は捕らわれて劉備に帰順。 李厳の説得で綿竹を開城し、費観も劉備に降った。のち、成都入りした劉備に用いられる。 |
費詩(ヒシ) |
??? 字は公拳。 蜀の臣。もと劉璋配下で、劉璋が劉備に降伏すると、そのまま劉備に仕える。 漢中王になった劉備が関羽に五虎大将筆頭を授けた際、老将の黄忠と同格にされて不満を漏らす関羽を説得し受領させた。 のちに諸葛亮が北伐を起こすと、郤正とともに秘書を命じられ、成都に残った。 |
糜竺(ビジク) |
??221 字は子仲。 劉備配下の臣。糜芳の兄。元は徐州の豪商。 陶謙の配下だったが、陶謙死後は劉備の補佐役となり、苦楽をともにした。 劉備入蜀後は、諸葛亮より上位の安漢将軍となる。糜芳が呉に降ったことを恥じて病を得、一年余で死んだ。 |
糜芳(ビホウ) |
??222 字は子方。 劉備配下の将。糜竺の弟。関羽の配下として荊州南郡を守る。 だが同僚の傅士仁に説得され、関羽を裏切り呉へ降る。のち蜀へ戻るが許されず処刑された。 |
馮習(フウシュウ) |
??222 字は休元。 蜀の将。関羽・張飛の仇討ちの軍に加わり、呉を攻めた。呉班とともに孫桓を破り、呉軍を夷陵に追い詰める。 孫桓の敗北を聞いて、孫権は陸遜を投入して形勢逆転を図り、夷陵で両軍は対峙した。陸遜の火計によって劉備の陣は炎上。 救援に駆けつけるが、呉軍に包囲されて戦死した。 |
傅士仁(フシジン) |
??222 字は君義。 関羽配下の将。樊城攻めの先鋒を務めるはずが、失火して罰せられ、公安の守備に回される。 そこで呉軍の侵攻を受けて降伏し、糜芳にも投降を説いた。 夷陵の戦いの際、蜀に帰参しようとするが、劉備に関羽の死の責任を問われ刑死した。 |
傅僉(フセン) |
??263 蜀の将。傅彤の子。姜維の北伐に従い、魏の王真、李鵬らを撃破する。のち陽平関の守将となり、攻め寄せた鍾会と戦った。 鍾会率いる大軍に野戦で挑むが味方の蒋舒が降伏したため、帰る場所を失う。死を決して敵軍に突撃し、自害した。 |
傅彤(フトウ) |
??222 蜀の将。傅僉の父。夷陵の戦いに出陣する。陸遜の命で鮮于丹が威力偵察に来ると、これを駆逐した。 やがて陸遜の火計により劉備の陣が炎上。張苞とともに劉備を守って撤退に転じるが呉軍の勢いを止められない。 殿に残って敵を引き受け、包囲されながら奮闘し、戦死した。 |
龐義(ホウギ) |
??? 蜀の臣。もと劉璋の配下。巴西の太守として、漢中の張魯に備えた。張魯が益州を攻める準備を始めると、劉璋に急報する。 のちに劉備が入蜀を果たすと、その配下に加わり、営中司馬に任命された。 |
鮑三娘(ホウサンジョウ) |
??? 鮑凱の娘。美貌に優れ、武芸にも秀でた鮑家の三女。 その美貌ゆえ求婚者が後を絶たなかったが、「自分より弱い者とは結婚しない」と言って、腕に覚えのある男たちを退け続けた。 その噂を聞きつけやってきた、関羽の三男・関索との一騎討ちで敗れ、関索の妻となる。以降は夫とともに蜀の将として戦った。 |
法正(ホウセイ) |
176?220 字は孝直。 蜀の臣。もとは劉璋配下。張松らと劉備入蜀を画策。謀略に長け、漢中攻略戦では参謀役を務めた。 法正が生きていれば夷陵の敗戦はなかったと言われている。 |
鮑素(ホウソ) |
蜀の将。姜維の北伐軍に参加。姜維率いる本隊が南安に攻め入るまでの陽動として、別働隊を率いて![]() しかし、鄧艾に見抜かれ、陳泰の攻撃を受け、敗死した。 |
龐統(ホウトウ) |
179?213 字は士元。 劉備配下の謀臣。諸葛亮とは同門の出で、臥龍・鳳雛と並び称された天才軍師。 赤壁の戦いで「連環の計」を遂行して、連合軍の勝利に一役買った。 劉備配下となると、益州攻略を進言して自ら指揮を執った。 |
彭羕(ホウヨウ) |
??220 字は永年。 劉璋の配下。直言が過ぎて劉璋に罰され放逐される。劉備の陣営にうまく潜り込んで入蜀に際する助言を与え、戦勝に貢献して劉備に登用された。 関羽が荊州で敗死すると、孟達に密かに通じ、叛意を疑われる。馬超の誘いに乗って本音を漏らしたため投獄され、死亡した。 |
孟達(モウタツ) |
??228 字は子度。正史では子度。 劉璋、劉備、曹丕と主君を替えた武将。劉備の入蜀に貢献するが、関羽を見殺しにして魏に降伏する。 曹丕の死後、蜀に戻ろうとするが、司馬懿に倒された。 |
楊儀(ヨウギ) |
??235 字は威公。 蜀の臣。蜀の長史(丞相の補佐役)として諸葛亮に従って北伐に参加。 諸葛亮死後は遺計を受け、魏延と対立しながらも無事に蜀軍を撤退させた。 蒋琬らが蜀の重職に任じられると、人事に不満を抱き抗議。その罪で庶民に落とされ恥じて自殺した。 |
楊戯(ヨウギ) |
??261 字は文然。 蜀の臣。公明正大な性格で、若い頃からその才覚に諸葛亮が注目した。姜維を軽んじており、酒の席でしばしば姜維に放言した。 姜維は平穏を装っていたが内心では憎んでおり、機を見て同志に讒言させた。平民に落とされ、失意のうちに病死する。 |
楊洪(ヨウコウ) |
??228 字は李休。 劉璋の配下。劉璋の降伏後、蜀を得た劉備の配下となり、治中の地位に就いた。のち諸葛亮らとともに劉備を皇帝に即位させる。 諸葛亮の第一次北伐の際には、成都の内務を任された。 |
雷銅(ライドウ) |
??218 蜀の将。もとは劉璋の配下で、呉懿、呉蘭とともに劉備軍を防いだが、包囲されて投降した。 その後、劉備に重用され、巴西の守備に就く。魏将・張郃を相手に善戦するが、伏兵に退路を断たれて敗死した。 |
来敏(ライビン) |
??? 字は敬達。 蜀の臣。学問を修め、書物に詳しかった。礼節を欠いた言動が多く、何度も役職を罷面・降格される。 劉禅の生まれる前から劉備に仕えた古老の臣で、その功労に免じて、許され、復職した。九十七歳の長寿であったという。 |
羅憲(ラケン) |
??270 字は令則。 蜀の将。英明で重用されたが、実権を握っていた宦官・黄皓になびかず、左遷されて巴東太守となった。魏の大軍が蜀攻略に乗り出した際には永安を守る。 成都が陥落すると、混乱に乗じた呉が永安に攻め寄せたが、魏の援軍と連携して城を守りきり呉の将・陸抗らを退けた。 |
李恢(リカイ) |
??231 字は徳昂。 蜀の臣。もと劉璋の配下。劉備の入蜀に猛反対したが聞き入れられなかった。 のち劉備の配下となり、張魯のもとにいた馬超を説得して帰順させる。南征の活躍で安漢将軍となる。 諸葛亮の北伐にも従軍し、後軍領兵使として輸送などを監督した。 |
李簡(リカン) |
??? 蜀の将。はじめは魏に仕え、狄県道の県長を務めていた。 正史では、姜維が北伐の軍を起こした際、成都に降伏文書を送り、姜維が狄道城に至ると降伏している。 のちに狄県道の住民は蜀に移された。 |
李球(リキュウ) |
??263 蜀の将。李恢の甥。魏の蜀攻略に際し、諸葛瞻に従って綿竹で魏軍と戦う。 粘り強く抗戦するが兵数の差は覆せず、蜀軍は追い詰められた。 諸葛瞻が鄧艾のしかけた伏兵に包囲され戦死すると、残された張遵・黄崇と三人で奮戦するが討死した。 |
李歆(リキン) |
??? 蜀の将。姜維の指示で、句安とともに麴山に城を築く。魏軍に包囲され水と兵糧を断たれる。 決死の覚悟で包囲を突破し、重傷を負いつつも姜維の元へ援軍を求めることに成功した。 正史では、脱出できず魏に降伏したという。 |
李厳(リゲン) |
??234 字は正方。 蜀の将。劉璋配下だったが劉備の入蜀時に帰順した。 諸葛亮から「陸遜にひけをとらぬ」という高い評価を得るが、北伐で補給に失敗したために失脚した。 |
李譔(リセン) |
??? 字は欽仲。 蜀の臣。劉禅に仕官。父・李仁は荊州の司馬徽や宋忠に学んだ俊才。 父からの教えのみならず算術・占術・医薬学・物理学などにも通じていた。 劉禅の子・劉璿が皇太子になると、その近侍に取り立てられ、劉璿を補佐した。 |
李福(リフク) |
??238 字は孫徳。 劉璋の配下。劉備の入蜀後、降伏して配下となった。劉備の死後、尚書僕射に任ぜられる。 北伐中の諸葛亮が五丈原で危篤に陥ると劉禅の使者として戦場を訪れ、後任を託すべき人物などについての遺言を聞いた。 |
柳隠(リュウイン) |
??? 字は休然。 蜀の将。姜維の北伐に従軍して武功を重ね、漢中の黄金囲の守将を任される。 魏の大軍が侵攻してくると、味方の城の陥落や将の降伏が相次ぐ中、防備を固めて城を守りきった。 成都が敵に奪われてもなお、劉禅からの書簡が届くまで抵抗を続け、のち降伏した。 |
劉永(リュウエイ) |
??? 字は公寿。 劉備の次男。劉備の死の直前、弟・劉理とともに呼び出され、諸葛亮を父と思って慕い、兄弟仲良くするように、と遺言された。 正史によると、劉禅の寵臣である黄皓と対立し、宮中への参内を禁じられ、十年にわたって劉禅と顔を合わせなかった。蜀滅亡後は洛陽に送られる。 |
劉琰(リュウエン) |
??234 字は威碵。 蜀の将。第一次北伐に活躍し、安定城の攻略後はその守りを任された。 のち劉禅の代には、宮中からなかなか戻らない妻・胡氏の不義を疑い、鞭打つなどの乱暴を行ったかどで捕らえられたという。 |
劉賢(リュウケン) |
??? 蜀の将。零陵太守・劉度の子。零陵に侵攻してきた劉備軍を邢道栄とともに迎え撃つが敗れ、張飛に生け捕られた。 諸葛亮に劉度を帰順させるよう説かれ、釈放される。降伏後、劉度は零陵太守に留め置かれ、劉賢は荊州で軍務に就いた。 |
劉諶(リュウシン) |
??263 蜀の将。劉禅の五男。劉禅の七人の子のうち、最も才覚に富んでいた。 重臣・譙周が劉禅に魏への降伏を勧めると激怒し、徹底抗戦を主張して朝議の場から追い出される。 群臣の意見は降伏に決し、蜀は滅亡した。劉禅と重臣らが魏に護送される中、先帝・劉備の廟前で自害する道を選んだ。 |
劉禅(リュウゼン) |
207?271 字は公嗣。 劉備の嫡子で、蜀の二代皇帝。長坂の戦いでは敵中に取り残され、趙雲に救出された。 劉備は諸葛亮に「劉禅に才がなければ代わって帝位につくように」と言い残すが、諸葛亮は劉禅を補佐し続けた。 魏軍が成都に迫ると即座に降伏。蜀は滅亡する。幼名は阿斗。 |
劉寧(リュウネイ) |
??? 蜀の将。南方を治める。関羽の仇を取ろうと劉備が呉征伐の軍を起こすと、同僚の杜路とともに駆けつけ、味方に加わった。 夷陵の戦いにおいて、陸遜率いる呉軍と戦ったが、火計にかかって劉備は敗走し、蜀軍は総崩れ。 呉軍に包囲され、杜路とともに降伏した。 |
劉巴(リュウハ) |
字は子初。 蜀の臣。もと劉璋配下で、劉璋が劉備を招いて張魯を防ごうとした際、反対した。 劉璋が劉備に降伏すると、黄権とともに仕官を拒む。しかし、劉備自らの来訪を受けて感銘し出仕した。 諸葛亮の第一次北伐では、中参軍として参加。諸葛亮、法正、李厳、伊籍とともに、蜀の法律である「蜀科」を作成した。 |
劉備(リュウビ) |
161?223 字は玄徳。 蜀の初代皇帝。前漢の中山靖王・劉勝の末裔と称し、献帝からは皇叔として頼りにされた。 義兄弟の関羽・張飛とともに黄巾賊討伐に参陣。各地を転戦し、ついに蜀の地を得て、三国鼎立を成した。 漢王朝の再興という大義のもと、天下統一をめざす。 |
劉敏(リュウビン) |
??? 蜀の将。偏将軍として、諸葛亮の第一次北伐に参加する。輸送を担う李厳の怠慢ぶりが明らかになると、諸葛亮らと告発して李厳を罷免 した。 正史では、諸葛亮の死後、将軍職を歴任し、王平とともに漢中の守備につき魏の侵攻を食い止めたという。 |
劉辟(リュウヘキ) |
??201 黄巾賊の将。黄巾の乱後も汝南で賊軍を率いる。 曹操と対抗するにあたり劉備を汝南に迎え、配下となって守備を任された。 のち曹操が攻め寄せ、夏侯惇軍の前に敗走し、高覧から劉備を守ろうとして戦死する。 |
劉封(リュウホウ) |
??220 劉備の養子。上庸の守備に就いていたが、関羽からの援軍要請を受けなかった。 そのため関羽親子は戦死し、激怒した劉備に成都で処刑された。 |
廖化(リョウカ) |
??264 字は元倹。 蜀の将。もと黄巾賊。千里行中の関羽に仕官を断られるが、のちに軍を率いて劉備に仕え各地を転戦する。 蜀の成立から滅亡までを生き抜いた。 |
呂義(リョギ) |
??? 蜀の将。もとは劉璋の配下で、劉備入蜀後も重く用いられた。北伐には後軍領兵使副将として参加した。 演義の「呂義」は、本来「呂乂」とすべきという。呂乂は、字を李陽といい、南陽の人で、県令や太守を歴任し、政の評判が高かった。 |
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