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武将辞典【蜀】
真・三國無双5 Empires 攻略 武将辞典【蜀】を掲載しています。伊籍(イセキ) |
?-? 字は機伯。 蜀の臣。もと劉表の幕客で、的盧の凶相が乗り手に祟るという逸話を劉備に話す。 蔡瑁が劉備暗殺を謀ったときは劉備に危機を伝え逃亡させた。 劉表没後、劉琮が曹操に降伏すると、劉備に仕え、関羽とともに荊州を守る。 弁舌に優れ使者としての応対を孫権に感心された。諸葛亮らと蜀科(蜀の法律)を作る。 |
尹賞(インショウ) |
?-? もとは魏の将で、天水郡の主簿。 姜維と親交があり、諸葛亮の第一次北伐の際に姜維が蜀へと降ったため、自らも天水城の門を開いて降る。 この功で、諸葛亮に冀城の県令に任じられた。 |
王平(オウヘイ) |
?-248 字は子均。 蜀の将。もとは魏の将軍だったが、漢中攻防戦の際に徐晃と対立し蜀に降った。南征、北伐で活躍。 街亭には馬謖の副将として参陣し敗勢の中で善戦した。 |
王甫(オウホ) |
?-219 字は国山。 蜀の将。関羽の樊城攻めを補佐した。 荊州守備の人事について忠告するが、関羽はこれを聞き流したため、傅士仁らの降伏を招いてしまう。 荊州が呂蒙に奪われると、関羽とともに麦城に籠もった。 関羽父子が脱出を図った際、周倉とともに麦城に残るが、関羽父子の死を知ると降伏を拒んで櫓から身を投じた。 |
霍峻(カクシュン) |
178?? 蜀の将。もと劉表配下の将で、成都制圧戦の最中、孟達に推挙され、劉備に仕える。 孟達とともに葭萌関の守備に当たり、当時張魯の幕下にいた馬超の攻撃を寡兵で防いだ。 曹操との漢中攻防戦でも葭萌関を守護。黄忠と厳顔が来援するまで、張郃の攻撃を防いだ。 |
関羽(カンウ) |
162?219 字は雲長。 蜀の将。五虎大将の筆頭に挙げられる。劉備、張飛と義兄弟の契りを結び、蜀の建国に尽力した。 義理堅いうえ武勇に優れ、「兵一万に匹敵する」と評される。長い髭を帝に「美髭公」とほめられ、通称となった。 |
関興(カンコウ) |
?-234 字は安国。 蜀の将。関羽の次男。劉備が呉征伐の軍を起こすと、これに参加し、張苞と義兄弟となる。 呉の潘璋を討ち、父の青龍偃月刀を奪い返した。 のち諸葛亮の北伐にも参加し、西羌軍との戦いでは越吉を斬るなど活躍した。 |
関索(カンサク) |
?-? 蜀の将。関羽の三男。荊州が陥落した際に負傷して、鮑家荘に逃れて静養する。 諸葛亮の南蛮征伐の直前に、蜀に戻って先鋒となり、計略によって孟獲を捕らえた。 |
関平(カンペイ) |
?-219 蜀の将。河北に住む庶民・関定の次男だったが、関羽に才を見込まれ養子となる。 主君・劉備が蜀に入ると、関羽とともに荊州の守備を任される。 のち荊州は魏と呉の挟撃を受け、陥落必至の危機に陥るが、決して関羽の側を離れず、魏呉両軍と激戦を繰り広げた。 |
簡雍(カンヨウ) |
?-? 字は憲和。 蜀の臣。劉備と同郷の出。義勇軍時代から随従して、使者や参謀役として活躍。 入蜀後は昭徳将軍に任ぜられた。豪放な性格だった。 |
魏延(ギエン) |
?-234 字は文長。蜀の将。劉表配下だったがその死後、劉備に降った。 このとき、反骨の相があるとして諸葛亮が反対するも劉備は受け入れ重用した。 のち、五虎大将に次ぐ猛将として活躍。北伐の際には蜀の主力として参戦した。 |
月英(ゲツエイ) |
?-? 諸葛亮の妻。黄承彦の娘。天文から地理・兵法と広く学問に通じ、諸葛亮を陰で支えた。 諸葛亮の死後、あとを追うように世を去る。 醜女と言われていたが、諸葛亮はその賢明さを伝え聞いて妻にと求めた。 一説では、世を欺くため醜女を装ったが実は美女だったともいわれる。 |
厳顔(ゲンガン) |
?-? 蜀の将。劉璋配下として巴郡を守備した。張飛と戦い捕らえられるが、張飛の対応に感じ入って帰順する。 のち、漢中攻略戦で黄忠とともに戦って活躍した。 |
黄権(コウケン) |
?-240 字は公衝。 劉璋の幕僚。劉備の入蜀に強硬に反対し、劉璋を諌めるが無視された。 劉備が益州を取ると、再三の要請に出仕し、右将軍に任ぜられる。 夷陵の戦いでは水軍を任されたが、敗北後に退路を断たれ、呉に降るのを潔しとせず、魏に投降。 魏で鎮南将軍に任ぜられ、のちに車騎将軍・儀同三司にいたった。 |
高翔(コウショウ) |
?-? 蜀の将。右将軍。諸葛亮の北伐に従軍する。剣閣から ![]() のち諸葛亮の策で、魏軍に木牛・流馬をわざと奪わせた。 |
黄忠(コウチュウ) |
?-222 字は漢升。 蜀の将。弓の名手で、百発百中の腕を誇った。劉表、韓玄に仕え、韓玄の配下として関羽と激闘を演じた。 のちに劉備に帰順し、益州や定軍山の戦いで活躍する。劉備の漢中王即位に伴い、五虎大将に任命された。 |
高定(コウテイ) |
?-? 蜀の臣。劉備の死後、南蛮王・孟獲の呼びかけで、雍闓と朱褒とともに蜀に反乱し、永昌郡を攻める。 南征に赴いた諸葛亮の離間の計にかかり、雍闓と朱褒を討って蜀に投降し、益州太守に任ぜられた。 |
呉懿(ゴイ) |
?-237 字は子遠。 蜀の将。劉璋の義兄で、呉班の族兄。 劉備が蜀に侵攻したとき劉循、呉蘭、雷銅とともに雒城の張任らを救援するが、趙雲に捕らえられ臣従。 未亡人の妹が劉備の后となり、劉永と劉理を生んだため厚遇される。 諸葛亮の北伐に参加し、諸葛亮の死後は車騎将軍に任ぜられ、漢中を守った。 |
呉班(ゴハン) |
?-234 字は元雄。 蜀の将。何進の部将・呉匡の子で、呉懿の族弟。 張飛が范疆と張達に殺されると、呉討伐戦では先鋒となり、緒戦に勝利。 夷陵で孫桓を包囲したが、劉備が陸遜に大敗したため撤退する。後将軍として、諸葛亮の北伐に参加。 呉懿とともに魏軍の浮橋を焼き討ちするよう命じられるが張虎と楽綝に討たれた。 |
呉蘭(ゴラン) |
?-218 蜀の将。劉璋配下だったが劉備の入蜀後に帰順した。馬超に従って漢中の対魏戦で活躍する。 斜谷の戦いで曹操の子・曹彰と戦って、斬られた。 |
沙摩柯(シャマカ) |
?-? 五谿蛮の王。劉備の呉討伐に協力し、呉の猛将・甘寧を弓で射殺した。 火攻めに遭い敗走していたところへ呉将・周泰の追撃を受け、斬り殺された。 |
周倉(シュウソウ) |
?-219 もと黄巾賊の大将。臥牛山で山賊をしていたところ、崇拝していた関羽と出会い、その片腕となった。 水練にも長じている豪傑。ただし正史には登場しない。 |
蒋琬(ショウエン) |
?-246 字は公琰。 蜀の将。劉備の書記として仕官し、のち参軍となって諸葛亮を補佐、成都制圧戦や南蛮征伐に従軍した。 北伐では成都に残って内政に専念し、前線の諸葛亮を助ける。諸葛亮の死後、後事を託され、蜀の国政を担った。 |
向寵(ショウチョウ) |
?-240 蜀の将。向朗の兄の子。諸葛亮の「出師の表」に登場。 軍事に明るく、劉備からも評価されていたので、都督に推挙された人物と紹介される。 諸葛亮が北伐に出発すると、御林軍(近衛)の総督として成都の守りについた。 正史によると、漢嘉郡の異民族を討伐中に戦死した。 |
向朗(ショウロウ) |
168?247 字は巨達。劉備配下の臣。劉表に仕えていたが、劉表死後、劉備に帰順した。 成都制圧戦で苦戦する劉備を諸葛亮が救援した際、荊州に残って関羽を補佐するよう命じられた。 正史によると、司馬徽に師事し、徐庶・韓嵩・龐統らと親しかったという。 |
諸葛均(ショカツキン) |
?-? 諸葛珪の子。諸葛瑾、亮の弟。父が早く死んだため、兄とともに叔父の諸葛玄を頼る。 諸葛玄の死後、諸葛亮とともに臥龍岡の草盧で暮らした。 諸葛亮が三顧の礼で劉備に仕えることになると草盧の管理を任された。蜀に仕えて長水校尉となった。 |
諸葛亮(ショカツリョウ) |
181?234 字は孔明。 蜀の丞相。「臥龍」の異名を持つ。 三顧の礼に応えて劉備に仕え、「水魚の交わり」と例えられるほど劉備から信頼された。 外交と内政に非凡な才能を発揮して、蜀の建国に多大な貢献をした。 |
孫乾(ソンケン) |
?-214 字は公祐。 劉備配下の臣。陶謙が死に際し補佐役として劉備に推薦した。 参謀役、外交官として、流浪時代の劉備を助けた。劉備入蜀後は、糜竺に次ぐ待遇を受けた。 |
卓膺(タクヨク) |
?-? 劉備配下の将。もとは劉璋配下で、雒城の戦いで張任が捕らわれたのを知って降伏。 劉備の蜀平定後は、張飛とともに巴西の守備に赴いた。 正史によると劉備が劉璋と開戦した際、黄忠と卓膺に兵を与えて劉璋に向かわせたとあり、もとから劉備配下であったようだ。 |
趙雲(チョウウン) |
?-229 字は子龍。 蜀の将。袁紹、公孫瓚に仕えるが、劉備の人柄に惚れ込み臣下となる。 豪胆かつ勇猛な士で、長坂の戦いでは百万の大軍を相手に単騎で斬りこみ、劉備の嫡子・阿斗を救い出した。 のち蜀の五虎大将に数えられる。 |
張嶷(チョウギョク) |
?-256 字は伯岐。 蜀の将。諸葛亮の南蛮征伐時、孟獲の妻・祝融との戦いで飛刀を受けて捕らえられた。諸葛亮と姜維の北伐で活躍する。 段谷で鄧艾に包囲された姜維を身を挺して救出し、自身は矢を浴びて戦死した。 正史によると、南中の異民族の融和的統治に功があり、異民族はその死を惜しみ廟を建てて祀ったという。 |
趙広(チョウコウ) |
?-? 蜀の将。趙雲の次男で、趙統の弟。 諸葛亮の第二次北伐の直前に趙雲が死ぬと、諸葛亮に訃報を伝える。 劉禅から牙門将に任ぜられ、兄とともに趙雲の墓を守るよう命じられた。 正史によると姜維に従って沓中で屯田しのち前線で戦死したという。 |
趙統(チョウトウ) |
?-? 蜀の将。趙雲の長男で、趙広の兄。 諸葛亮の第二次北伐の直前に弟の趙広とともに諸葛亮を訪ね、父の趙雲が病死したことを伝える。 劉禅から虎賁中郎に任ぜられ、趙広とともに趙雲の墓を守るように命じられた。 正史によると、趙雲の後を継ぎ、督行領軍まで昇進した。 |
張飛(チョウヒ) |
168?221 字は翼徳。 蜀の将。五虎大将の1人。劉備、関羽と義兄弟の契りを結ぶ。 酒が好きでそのために酔って失敗することも少なくなかった。 長坂の戦いでは、単騎で長坂橋に仁王立ちし大喝一声して、曹操軍百万の追撃を退けた。 |
張苞(チョウホウ) |
?-229 蜀の将。張飛の長男。張飛の死ののち、形見の蛇矛を持って参戦し、関興と義兄弟となる。呉の謝旌を討ち、初陣を飾った。 のち北伐にも参加したが、 ![]() |
張翼(チョウヨク) |
?-264 字は伯恭。 蜀の将。劉璋配下だったが劉備に降伏し、南征、北伐では一軍を率いて活躍した。 車騎将軍・夏侯覇の死後、位を廖化と分け与えられて、左車騎将軍となる。 |
陳式(チンショク) |
?-230 蜀の将。定軍山で捕虜となるが、夏侯尚と交換で陣へ戻る。 第三次北伐で魏軍の追撃に失敗し、敗戦の責任を問われて処刑された。 「三国志」の著者・陳寿の父という説もある。 |
陳震(チンシン) |
?-235 字は考起。 蜀の臣。もと袁紹配下。劉備が袁紹の客将であったとき、劉備の手紙を関羽のもとへ届けた。 袁紹敗北後、劉備が荊州牧になると召し出されて従事となる。 諸葛亮の「出師の表」において郭攸之、費禕、張裔、蒋琬らと並んで忠義に篤い人物と評される。 孫権が帝位に就いたとき、祝賀の使者として呉を訪れた。 |
陳到(チントウ) |
?-? 字は叔至。 蜀の将。劉備が豫州を支配した頃から仕える。名声官位は常に趙雲の次にあり、ともに忠節勇武を称えられた。 劉禅が即位すると、永安都督、征西将軍となる。諸葛亮の北伐に際しては、李厳の指揮下で永安を守った。正史にのみ登場する。 |
董和(トウカ) |
?-? 字は幼宰。 蜀の臣。董允の父。劉璋のもとで益州太守を務め、劉備が蜀を攻撃すると張魯に加勢を求めるよう進言。 劉備が成都に迫る間も徹底抗戦を主張したが。劉璋は降伏した。 劉備が益州牧となると掌軍中郎将に取り立てられ諸葛亮の片腕として補佐する。 |
鄧芝(トウシ) |
?-251 字は伯苗。 蜀の臣。もとは劉璋の配下で、劉璋が劉備に降ると、劉備に仕えて尚書となる。 劉備の死後、呉との同盟の使者となり、孫権と面会。 煮えたぎった大釜で脅かそうとする孫権を論破して関係修復に成功し、孫権に高く評価された。 第一次北伐では趙雲とともに先鋒として一軍を率いその後も北伐に参戦した。 |
馬謖(バショク) |
190?228 字は幼常。 蜀の将。馬良の弟。諸葛亮に才能を買われるが、劉備には「大事を任せられぬ」と評される。 南征で参謀役として活躍したが、北伐で命令に背いて大敗を招き、諸葛亮に処刑された。 |
馬岱(バタイ) |
?-? 蜀の将。馬超の従兄弟。馬騰の兄の子。渭南で曹操に敗北した後、各地を転戦。 最後は馬超とともに劉備に帰順した。南征や北伐では軍を率いて活躍する。 諸葛亮の死後、造反した魏延を討ち取った。 |
馬超(バチョウ) |
176?222 字は孟起。 馬騰の長男。その武者振りの見事さから「錦馬超」の異名を持つ。 父の仇・曹操を討つべく西涼の兵を率いて長安を襲うが、敗れる。のち劉備に帰順。 漢中攻略などで功を挙げ、五虎大将の1人に数えられた。 |
馬良(バリョウ) |
187?225 字は季常。 蜀の臣。「白眉」の異名を持つ俊才。弟の馬謖とともに劉備に仕える。 荊州を預かる関羽のもとで、内政を補佐。夷陵の戦いでは、陣の図面を諸葛亮に届けた。 |
費禕(ヒイ) |
?-253 字は文偉。 蜀の侍中。もとは劉璋の配下。諸葛亮が北伐に出る間、成都に残って内政を支えた。 諸葛亮臨終の際に、「自分の後継を蒋琬に、その後は費禕に」と指名され、引き続き成都を守った。 正史では、後年、魏からの降将に宴席で斬られたとある。 |
費詩(ヒシ) |
?-? 字は公拳。 蜀の臣。もと劉璋配下で、劉璋が劉備に降伏すると、そのまま劉備に仕える。 漢中王になった劉備が関羽に五虎大将筆頭を授けた際、老将の黄忠と同格にされて不満を漏らす関羽を説得し受領させた。 のちに諸葛亮が北伐を起こすと、郤正とともに秘書を命じられ、成都に残った。 |
糜竺(ビジク) |
?-221 字は子仲。 劉備配下の臣。もとは徐州の豪商。 陶謙配下だったが、陶謙の死後は劉備の補佐役となり、苦楽をともにする。 劉備入蜀後は、諸葛亮より上位の安漢将軍となった。 |
糜芳(ビホウ) |
?-222 字は子方。 劉備配下の将。糜竺の弟。関羽の配下として荊州南郡を守る。 だが同僚の傅士仁に説得され、関羽を裏切り呉へ降る。のち蜀へ戻るが許されず処刑された。 |
傅士仁(フシジン) |
?-222 字は君義。 関羽配下の将。樊城攻めの先鋒を務めるはずが、失火して罰せられ、公安の守備に回される。 そこで呉軍の侵攻を受けて降伏し、糜芳にも投降を説いた。 夷陵の戦いの際、蜀に帰参しようとするが、劉備に関羽の死の責任を問われ刑死した。 |
法正(ホウセイ) |
176?220 字は考直。 蜀の臣。もとは劉璋配下。張松らと劉備入蜀を画策。謀略に長け、漢中攻略戦では参謀役を務めた。 法正が生きていれば夷陵の敗戦はなかったと言われている。 |
龐統(ホウトウ) |
179?213 字は士元。 劉備配下の謀臣。諸葛亮とは同門の出で、臥龍・鳳雛と並び称された天才軍師。 赤壁の戦いで「連環の計」を遂行して、連合軍の勝利に一役買った。 劉備配下となると、蜀攻略を進言して自ら指揮を執った。 |
孟達(モウタツ) |
?-228 字は子度。正史では子度。 劉璋、劉備、曹丕と主君を替えた武将。劉備の入蜀に貢献するが、関羽を見殺しにして魏に降伏する。 曹丕の死後、蜀に戻ろうとするが、司馬懿に倒された。 |
楊儀(ヨウギ) |
?-235 字は威公。 蜀の臣。蜀の長史(丞相の補佐役)として諸葛亮に従って北伐に参加。 諸葛亮死後は遺計を受け、魏延と対立しながらも無事に蜀軍を撤退させた。 蒋琬らが蜀の重職に任じられると、人事に不満を抱き抗議。その罪で庶民に落とされ恥じて自殺した。 |
雷銅(ライドウ) |
?-218 蜀の将。もとは劉璋の配下で、呉懿、呉蘭とともに劉備軍を防いだが、包囲されて投降した。 その後、劉備に重用され、巴西の守備に就く。魏将・張郃を相手に善戦するが、伏兵に退路を断たれて敗死した。 |
李厳(リゲン) |
?-234 字は正方。 蜀の将。劉璋配下だったが劉備の入蜀時に帰順した。 諸葛亮から「陸遜にひけをとらぬ」という高い評価を得るが、北伐で補給に失敗したために失脚した。 |
劉巴(リュウハ) |
字は子初。 蜀の臣。もと劉璋配下で、劉璋が劉備を招いて張魯を防ごうとした際、反対した。 劉璋が劉備に降伏すると、黄権とともに仕官を拒む。しかし、劉備自らの来訪を受けて感銘し出仕した。 諸葛亮の第一次北伐では、中参軍として参加。 諸葛亮、法正、李厳、伊籍とともに、蜀の法律である「蜀科」を作成した。 |
劉備(リュウビ) |
161?223 字は玄徳。 蜀の初代皇帝。前漢の中山靖王・劉勝の末裔と称し、献帝からは皇叔として頼りにされた。 義兄弟の関羽・張飛とともに黄巾賊討伐に参陣。各地を転戦し、ついに蜀の地を得て、三国鼎立を成した。 漢王朝の再興という大義のもと、天下統一をめざす。 |
劉辟(リュウヘキ) |
?-201 黄巾賊の将。黄巾の乱後も汝南で賊軍を率いる。 曹操と対抗するにあたり劉備を汝南に迎え、配下となって守備を任された。 のち曹操が攻め寄せ、夏侯惇軍の前に敗走し、高覧から劉備を守ろうとして戦死する。 |
劉封(リュウホウ) |
?-220 劉備の養子。上庸の守備に就いていたが、関羽からの援軍要請を受けなかった。 そのため関羽親子は戦死し、激怒した劉備に成都で処刑された。 |
廖化(リョウカ) |
?-264 字は元倹。 蜀の将。もと黄巾賊。千里行中の関羽に仕官を断られるが、のちに軍を率いて劉備に仕え各地を転戦する。 蜀の成立から滅亡までを生き抜いた。 |
呂義(リョギ) |
?-? 蜀の将。もとは劉璋の配下で、劉備入蜀後も重く用いられた。北伐には後軍領兵使副将として参加した。 演義の「呂義」は、本来「呂乂」とすべきという。呂乂は、字を李陽といい、南陽の人で、県令や太守を歴任し、政の評判が高かった。 |
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