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武将辞典【魏】
真・三國無双5 Empires 攻略 武将辞典【魏】を掲載しています。于禁(ウキン) |
?-221 字は文則。 曹操配下の勇将。曹操の旗揚げ当時から付き従い各地を転戦。 曹操が張繍に敗れたとき、略奪を働いた夏侯惇配下の青州兵を鎮圧し、曹操から激賞される。 官渡の戦いでは後詰、赤壁の戦いでは水軍都督となる。 樊城の戦いで関羽に敗れて降伏。孫権により魏に送還されたが、汚名を恥じて憤死した。 |
閻柔(エンジュウ) |
?-? 魏の将。後漢の上谷太守・閻志の弟。年少の頃、烏丸、鮮卑に捕らわれるが逆に信頼を得る。 鮮卑の助力を得て公孫瓚と対抗した。官渡の戦い後は曹操に臣従し、曹操の烏丸討伐に貢献。 曹操から実子の曹丕と同様に可愛がられ、曹丕が帝位に就くと度遼将軍になった。 |
王双(オウソウ) |
?-228 字は子全。 魏の将。熊のごとき巨漢で、顔は黒く眼は黄色かったという。 万夫不当の猛将で、大きな得物や強弓を軽々と扱った。 曹叡の信任を得て虎威将軍に任ぜられ曹真指揮のもと、 ![]() しかし、諸葛亮の策にはまり、敗北した。 |
王朗(オウロウ) |
?-228 字は景興。 魏の臣。もと会稽太守。孫策に敗れ、曹操に仕えた。 曹丕の代に御史大夫となり、しぶる献帝を脅して禅譲を迫った。 渭水の戦いで諸葛亮に論戦を挑むが、一蹴されて憤死した。 |
賈逵(カキ) |
?-? 字は梁道。 魏の臣。曹彰が曹丕と後継の座を争おうとするのを諌めた。 対呉戦では曹休の参謀として参陣し、周魴の偽りの投降を見抜き警告。敗走する曹休を助けた。 |
華歆(カキン) |
157?231 字は子魚。 豫章太守だったが、呉の孫策に降る。のちに孫権の使者として魏に赴き、曹操配下となった。 演義では、伏后の髪をつかんで連行したり、献帝に禅譲を迫ったりと 非情に人物に描かれているが正史では清廉な人格者である。 |
郭嘉(カクカ) |
170?207 字は奉考。 曹操の軍師。際だった知略と判断力をもって厚く信任された。 呂布討伐や袁紹との戦いに貢献するが、北方平定時に病に冒され38歳で没する。 赤壁で敗戦した曹操は「郭嘉がいたなら」と嘆いたという。 |
郝昭(カクショウ) |
?-229 字は伯道。 魏の将。正史では雑号将軍。若年より軍に身を投じ、各地で勲功をあげる。 のち都督・司馬懿の推挙で陳倉の守将に抜擢され蜀軍の北伐に当たった。 諸葛亮や魏延の猛攻を巧みにしのぐが病に倒れる。のちに列侯に封ぜられた。 |
郭淮(カクワイ) |
?-253 字は伯済。 魏の行軍司馬。曹真や司馬懿の指揮のもと ![]() 東奔西走し、局地的な勝利はあったものの、完全勝利は一度もなかった。 のち蜀軍との戦いで姜維の矢を眉間に受け、絶命する。正史では病死で、大将軍を追贈された。 |
夏侯威(カコウイ) |
?-? 字は季権。 魏の将。夏侯淵の次男。 司馬懿の推挙により取り立てられ、兄の夏侯覇とともに魏軍の先鋒を務め、北伐の諸葛亮軍と対峙した。 のち公孫淵討伐に従軍し、これを破るのに貢献する。 |
夏侯淵(カコウエン) |
?-219 字は妙才。 魏の将。夏侯惇の従兄弟。曹操の挙兵から行動をともにし、軍の一翼を担った。 急襲を得意とした名将で、馬超を破るなど活躍する。また、武芸においても弓術に秀でていた。 |
夏侯恩(カコウオン) |
?-208 曹操の側近。曹操が持っていた二本の宝剣「倚天」と「青紅」のうち、「青紅」を預かっていた。 長坂の戦いで略奪を働こうと出陣していたが、阿斗を探していた趙雲に討ち取られ、宝剣も奪われた。 |
夏侯和(カコウカ) |
?-? 字は義権。 魏の将。夏侯淵の四男。弁舌さわやかで兵法にも長けていた。 司馬懿の推挙で対蜀戦に従軍し諸葛亮率いる蜀軍と対峙した。 上方谷では司馬懿に討って出るよう進言し、攻撃を任される。 |
夏侯恵(カコウケイ) |
?-? 魏の将。夏侯淵の三男。幼少より文才に優れていた。 司馬懿の推挙で、弟の夏侯和とともに、行軍司馬として対蜀戦に従軍した。 のち、死んだはずの諸葛亮が現れたことに驚き、逃げ出す司馬懿を冷静に引き留めた。 |
夏侯尚(カコウショウ) |
?-225 字は伯仁。 魏の将。夏侯惇の甥。定軍山の戦いでは捕虜となり、陳式との人質交換で自国に戻った。 のち呉を三路から攻めた際、曹真とともに南郡を包囲したが、陸遜と諸葛亮の前に敗北した。 |
夏侯徳(カコウトク) |
?-218 魏の将。夏侯惇の甥で、夏侯尚の兄。 天蕩山を守備したが、蜀将・厳顔に火を放たれて、消火作業に気をとられていたところを厳顔によって斬られた。 正史には登場しない。 |
夏侯惇(カコウトン) |
?-220 字は元譲。 魏の将。曹操とは従兄弟。 呂布との戦いで左目に矢を受けるが父母からもらった物だからと、抜いた矢に刺さった目玉を食らったという。 その後も軍を率いて各地を転戦し、曹操の片腕として活躍した。 |
夏侯覇(カコウハ) |
?-262 字は仲権。 魏、のち蜀に仕えた将。夏侯淵の長男。 司馬懿の推挙により、弟ともども対蜀戦に従軍する。 司馬懿が魏の大権を握ると、身の危険を感じて蜀に降った。 その後、姜維とともに北伐に赴くが司馬望の待ち伏せに遭い、矢玉を受けて戦死する。 |
夏侯楙(カコウボウ) |
?-? 字は子休。正史では子林。 魏の将。夏侯淵の子。夏侯惇の養子。 名将を父に持ち、曹操の娘・清河公主を妻に迎え、高い地位を得る。 諸葛亮率いる蜀軍の討伐に名乗りを上げるが、実力も経験も及ばず敗北。 のち胡へ逃げたまま帰参しなかった。 |
韓浩(カンコウ) |
?-? 字は元嗣。魏の将。 河内太守に従って董卓と戦い、袁術に取り立てられて騎都尉となった。 評判を聞いた夏侯惇に請われて副将となる。 曹操に屯田制の必要を進言して認められ、大いに信任された。 演義では長沙太守・韓玄の弟とされている。 |
楽進(ガクシン) |
?-218 字は文謙。 曹操配下の勇将。曹操の旗揚げ当時から付き従った。 各地を転戦して目覚しい活躍を見せ、張遼、于禁、徐晃、張郃、と並び魏の五将軍として称賛された。 |
許儀(キョギ) |
?-263 魏の将。許褚の子。牙門将軍。 鍾会と鄧艾が蜀討伐戦を起こした際、鍾会の先鋒となり進軍路を切り開く任務に就く。 南郡で交戦中、悪路に鍾会の乗馬が足を取られ、蜀の盧遜に殺されそうになる事件が起こる。 辛くも生還した鍾会によって、職務怠慢として殺された。 |
許褚(キョチョ) |
?-? 字は仲康。魏の将。 身の丈八尺以上の大男で、典韋と互角に戦った実力を認められ、護衛役として曹操に付き従う。 普段は無口でぼんやりしているが戦場では虎のように勇猛に戦うことから「虎痴」の異名をとった。 |
牛金(ギュウキン) |
?-? 曹仁配下の将。 南郡を守り周瑜率いる呉軍と戦う。 籠城を決める曹仁に「城を出て戦わないのは臆病だ」と言って出陣するが包囲されてしまう。 曹仁に救出されると反撃に転じて呉軍を退けるが、その後の戦いで周瑜の策にはまり敗退。 南郡は趙雲に奪われた。 |
胡班(コハン) |
?-? 曹操の滎陽太守・王植の従事。胡華の子。 劉備のもとへ帰ろうと関を訪れた関羽を、焼き討ちするように王植に命じられる。 しかし、関羽の人物に敬服した胡班は、関羽を逃がした。 のち関羽を頼って荊州に移り、蜀に仕える。 関羽が五虎大将に任ぜられると、関羽の代理で成都に赴き、爵位を受け取った。 |
崔琰(サイエン) |
?-216 字は李珪。 魏の臣。もとは袁紹に仕えたが、曹操が鄴を制圧すると臣下に加わる。 その際、戸籍を得て冀州の豊かさを喜ぶ曹操に民衆の苦労を説き、たしなめた。 曹操が魏公になると、尚書に任ぜられる。 しかし、曹操を魏王に立てる計画が持ち上がるとただ一人反対し、曹操を奸賊と罵りながら撲殺された。 |
司馬懿(シバイ) |
179?251 字は仲達。 魏の臣。曹操に才能を見出され、重用される。 蜀との戦いでは、諸葛亮の挑発に乗らず、守勢に徹して勝利を収めた。 冷静さと的確な判断能力をもつ天才軍師にして、晋王朝の土台を築いた策謀家。 |
司馬師(シバシ) |
208?255 字は子元。 魏の将。司馬懿の長男。諸葛亮との戦いなどで活躍。 のち、父とともに政敵の曹爽を討ち、魏の実権を握った。 父の死後、曹芳を廃したため、文欽らの反乱を招く。 自ら鎮圧したが、陣中で顔の瘤が悪化し、弟の司馬昭に後を託して死亡。 |
司馬昭(シバショウ) |
211?265 字は子上。 魏の臣。司馬懿の次男。兄である司馬師とともに権勢を振るった。 兄の死後は大将軍の位を継ぎ、全権を掌握する。 蜀を平定したのち、晋王となった。 |
朱光(シュコウ) |
?-215 曹操配下の将。曹操が濡須から撤退するとき、皖城の守備を命じら盧江太守となる。 翌年、孫権に皖城を攻められると、城を堅守するが、寄せ手の甘寧に打ち倒され、呉の兵士に殺された。 正史では、殺されずに捕らえられ、のち送還されている。 |
朱霊(シュレイ) |
?-? 字は文博。 魏の将。袁術討伐に向かう劉備に監軍として従うが、監視役を果たせずに帰陣した。 正史によると、もと袁紹の武将で、曹操に嫌われていたという。 |
鍾会(ショウカイ) |
225?264 字は士季。 幼少より非凡な才を見せ、司馬昭に重用される。 鄧艾とともに蜀征伐の指揮をとるが不和となり、鄧艾に出し抜かれ成都を先取りされてしまう。 蜀復興を企む姜維と結んで鄧艾を失脚させると、蜀での独立を図ったが部下に斬られた。 |
蒋幹(ショウカン) |
?-? 字は子翼。 曹操配下の謀臣。周瑜の同窓で赤壁の戦いでは周瑜に降伏を勧めるため孫権の陣営を訪れる。 しかし、周瑜が偽造した蔡瑁と張允の裏切りの書状を曹操に渡して、曹操に蔡瑁と張允を殺させてしまう。 再度周瑜を訪れた際も、周瑜の思惑通りに龐統を曹操軍に誘い、連環の計を成功させる手助けをしてしまった。 |
蒋済(ショウサイ) |
?-249 字は子通。 魏の将。関羽が荊州で優位に立つと、曹操は許都への侵攻を恐れ遷都を考えるが、司馬懿とともにこれを説得して留めた。 曹操の死後は曹丕を補佐。のちに司馬懿の政変に加担した。 才人で、「瞳を見れば人がわかる」との論文を記したという。 |
甄姫(シンキ) |
182?221 傾国の美女。肌は玉のごとく、美貌は花のごとし、と讃えられる。 袁紹の次男・袁煕の妻だったが、曹操が冀州を攻め落とした際に、真っ先に乗り込んだ息子の曹丕が見初めて妻にした。 |
申儀(シンギ) |
?-? 魏の将。申耽の弟。一時は兄とともに蜀に降っていたが、 孟達が関羽敗死の責任を問われたため、孟達と共謀して魏に投降する。 のち、孟達が再び蜀に内通すると、司馬懿に急報し、孟達に討たせた。 |
申耽(シンタン) |
?-? 字は義拳。 漢中攻防戦で曹操が敗れたため蜀に降った。 孟達が関羽敗死の責任を問われると、孟達と共謀し、魏に投降する。 のち、孟達が蜀に内通したのを司馬懿に急報し、孟達を討った。 |
辛眦(シンピ) |
?-? 字は佐治。 魏の臣。辛評の弟。袁氏に仕えて袁譚を補佐し、袁氏滅亡後は曹操配下となる。 五丈原で諸葛亮と対峙中の魏軍に勅詔を届け出撃にはやる将兵を抑えた。 |
荀彧(ジュンイク) |
163?212 字は文若。 魏の臣。「王佐の才」があると称された賢士。参謀として曹操の覇業を支えた。 曹操の魏公即位に反対し、憂悶の末に病死した。自殺したとの説もある。 |
荀攸(ジュンユウ) |
157?214 字は公達。 曹操配下の臣。荀彧の甥。軍事面に長じ、戦場では多くの助言を行った。 赤壁の戦いには程昱とともに参謀として従軍した。 |
徐晃(ジョコウ) |
?-227 字は公明。 魏の将。楊奉配下だったが満寵に説得され曹操に帰順する。軍の主軸として各地を転戦した。 智勇に優れた将で、樊城で関羽軍に勝利した際、「孫武に匹敵する」と曹操から称えられた。魏の五将軍に数えられる。 |
徐庶(ジョショ) |
?-? 字は元直。 司馬徽の門下。単福の名で劉備の軍師となり、曹仁の陣を破るなど才を見せる。 その才を欲した曹操は、徐庶の母の偽手紙で呼び出し、徐庶は劉備に諸葛亮を推挙して許昌に赴く。 しかし、劉備に義理立てし、曹操に献策することはなかった。 |
徐商(ジョショウ) |
?-? 曹操配下の将。徐晃の副将として関羽討伐に従軍する。 呂蒙が荊州を奪ったのち、呂建とともに関羽軍を攻撃し、樊城の包囲を解いた。 |
薛喬(セツキョウ) |
?-? 魏の将。228年、周魴の謀略により曹休が呉を攻めたとき、曹休の指示で石亭の北に伏兵する。 しかし、陸遜に裏をかかれ呉軍の攻撃にあって敗れ、全琮に斬られた。 正史では越騎校尉として喪中の曹休に、曹丕の勅詔を届けている。 |
薛悌(セツテイ) |
?-? 字は考威。 魏の臣。曹操は冀州を平定すると、薛悌を東平の王国とともに左右の長史に任じた。 のち曹操の使者として、合肥を守る張遼に孫権への対応策の入った手箱を届けた。 正史によると、兗州従事。泰山太守、護軍などを歴任している。 |
曹宇(ソウウ) |
?-? 字は彭祖。 曹丕の子で、燕王。病床の曹叡から、大将軍となり、帝位を受け継ぐ曹芳の補佐に当たるよう頼まれるが、固辞した。 正史によると曹宇は、曹操の子で曹丕の異母兄弟にあたる。 妻は張魯の娘で、子の曹奐は魏最後の皇帝となった。 |
曹叡(ソウエイ) |
205?239 字は元仲。 曹丕と甄姫の子。魏の二代皇帝。曹真、司馬懿らを派遣して蜀の北伐軍に対抗させた。 蜀と呉が共同で魏に攻め込むと、自らも出陣して孫権を破った。 蜀の諸葛亮が死亡すると変心し、宮殿増築など国力を浪費した末に病で夭折した。 |
曹休(ソウキュウ) |
?-228 字は文烈。 魏の将。曹操の甥。弓の名手で、曹操の没後も曹丕、曹叡と歴任した。 対呉戦で周魴の計略にかかり、大敗を喫する。その心痛から病にかかって死亡した。 |
曹洪(ソウコウ) |
?-232 魏の将。曹操の従兄弟。曹仁とともに、曹操の挙兵に参じた。 魏軍の中核として各地を転戦し、活躍する。 曹丕の即位後は、衛将軍、驃騎将軍を歴任した。 |
曹彰(ソウショウ) |
?-223 字は子文。 曹操の三男(母は卞氏)。武勇に優れ、素手で猛獣を倒したというほどの猛将。 「黄鬚児」の異名を持つ。漢中争奪戦で、敵軍に追われる父・曹操を救った。 |
曹植(ソウショク) |
192?232 字は子健。 曹操の四男。曹丕と後継者の座を争った。 曹操が好むように振る舞うが、楊脩の入れ知恵だと発覚すると疎まれ、後継の座を逸した。 曹操死後、曹丕に殺されそうになるが、「七歩の詩」を詠み、死を免れる。 詩文に才能があり、「没神の賊」など多くの作品を世に残した。 |
曹真(ソウシン) |
?-231 字は子丹。 魏の将。曹操の甥。曹丕に後事を託される。 大都督として蜀の北伐軍相手に戦うが、諸葛亮の策の前に連敗した。 さらに挑発の手紙を受け取り、憤死する。 |
曹純(ソウジュン) |
?-210 字は子和。 曹仁の弟。曹操軍の精鋭騎兵部隊「虎豹騎」を率いる。 赤壁の戦い後、曹仁とともに南郡を守り周瑜の攻勢を幾度か退ける。 しかし、周瑜の偽葬儀にだまされ、誘き出されて撃破された。 その間に南郡は劉備軍の趙雲に奪われた。 正史によると学問好きで学者を敬愛したという。 |
曹仁(ソウジン) |
168?223 字は子考。 魏の将。曹操の従兄弟。豪胆にして武芸百般に通じ弓術、馬術を得意とした。 赤壁の戦いののちは荊州を守備する。 樊城で関羽軍に包囲されて窮地に陥るが、堅く守ってこれを凌いだ。 信任厚く、曹丕の代には魏の大司馬まで務めた。 |
曹操(ソウソウ) |
155?220 字は孟徳。 魏の王。「乱世の奸雄」と評される。兵法書を著するなど、文武に通じていた。 黄巾の乱に際し、討伐軍に参加して頭角を現す。 董卓の滅亡後、混乱する中原に着々と地盤を固め、大国・魏の礎を築き上げた。 |
曹丕(ソウヒ) |
187?226 字は子桓。曹操の次男。魏の初代皇帝。文武に優れ、若年より曹操に従って戦う。 袁紹討伐戦では傾国の美女と称えられた甄姫を保護し妻とした。 曹操の死後、魏の王位を引き継ぐと、献帝から禅譲を受け、帝位を得る。 |
孫礼(ソンレイ) |
?-? 字は徳達。 魏の将。大石山の巻狩りの際に、曹叡の前に踊り出た虎を斬り殺した功がある。 曹真、司馬懿の配下として対蜀戦で活躍した。 |
戴陵(タイリョウ) |
?-? 魏の将。張郃の副将。北伐に出た諸葛亮の軍と戦った。蜀軍に包囲されて張郃に救われ、追撃にも失敗する。 のち、諸葛亮の計略にかかって捕虜となり、顔に墨を塗られて送り返された。 |
張球(チョウキュウ) |
?-? 魏の将。諸葛亮の第五次北伐に呼応して呉の陸遜が合肥に来襲した際、曹叡の指揮下で迎撃に当たる。 巣湖口にある呉の水塞に満寵とともに夜襲を仕掛け、諸葛瑾の水軍を大破。 これにより陸遜は撤退を余儀なくされ、魏は諸葛亮の北伐軍との戦いに専念できた。 |
張虎(チョウコ) |
?-? 魏の将。張遼の子。諸葛亮が第二次北伐を起こした際、曹真の先鋒となり、副先鋒の楽綝とともに前線を守った。 その後も相次ぐ北伐に対し、曹真、司馬懿の指揮下で、しばしば楽綝と協力して迎撃に当たる。 特に第五次北伐では呉班を射殺する戦果を上げた。 諸葛亮死後、遼東で公孫淵が反乱を起こすと司馬懿に従い鎮圧に当たった。 |
張郃(チョウコウ) |
?-231 字は儁乂。 魏の将。袁紹配下であったが、郭図の讒言により窮地に陥り、曹操に帰順した。 主に蜀との戦いで活躍し、諸葛亮にも一目置かれる。街亭の戦いでは馬謖を包囲して撃破した。 魏の五将軍に数えられる。 |
張普(チョウフ) |
?-228 魏の将。曹休配下として石亭に出陣。 先鋒を命じられ数千の兵を率いて、呉の徐盛と対峙するがかなわず引き下がる。 のち石亭の南に二万の軍で伏兵したところ、呉の朱桓の夜襲に遭い、一刀のもとに斬り落とされた。 |
張遼(チョウリョウ) |
169?224 字は文遠。 魏の将。はじめ呂布配下の将として各地を転戦した。呂布の敗死後、曹操配下となる。 合肥を守備した際、わずか八百の兵で十万の呉軍を撃退し、泣く子も黙ると恐れられた。 魏の五将軍の筆頭に挙げられる。 |
陳矯(チンキョウ) |
?-237 字は李弼。魏の臣。赤壁の戦いの後、曹仁とともに江陵を守る。 攻め寄せた周瑜を迎撃し、周瑜戦死の偽報に乗せられて曹仁が出陣している間、城の守りを任されたが 諸葛亮の命を受けた趙雲に城を奪われ、敗走した。 曹操の死後勅詔を待たずに魏王に即位するよう曹丕に勧め、華歆、王朗らとともに献帝に禅譲を迫った。 |
陳羣(チングン) |
?-236 字は長文。 魏の臣。陳泰の父。曹操臨終の際、曹洪、賈詡、司馬懿らとともに後事を託される。 曹操が死ぬと献帝に譲位を迫った。 曹丕の死後は司空となって、曹真、司馬懿とともに曹叡を補佐。 正史によると、祖父の陳寔、父の陳紀、叔父の陳諶は皆後漢の名臣で、陳羣も「九品中正法」を制定し魏の任官制度を整えた。 |
程昱(テイイク) |
141?220 字は仲徳。 曹操配下の謀臣。もとの名は「立」であったが、日輪を捧げ持つ夢を見たことから名を改めた。 身の丈八尺三寸の偉丈夫。苟彧の推挙で曹操に仕え、軍師として活躍する。 |
典韋(テンイ) |
?-197 魏の将。いにしえの豪傑、「悪来」の異名を持つ怪力の巨漢。 曹操の護衛としてつねにその傍らにあった。 宛城で張繍の夜襲を受けた際、押し寄せる敵兵の前に立ちはだかり、命を懸けて曹操を逃がした。 |
典満(テンマン) |
?-? 曹操配下の将。典韋の子。 張繍の襲撃を受けて父・典韋が曹操を守って戦死すると、側近として曹操の館に引き取られた。 正史によると、父の戦死後、郎中に任ぜられ、曹丕が王位に就くと都尉に任ぜられている。 |
田豫(デンヨ) |
?-? 字は国譲。 魏の将。諸葛亮の第五次北伐に呼応し呉が魏に攻め寄せた際、襄陽の守りに加勢した。 正史によると、劉備、公孫瓚と仕え、公孫瓚滅亡後には曹操に仕官。 曹彰の烏丸討伐に参加し、曹丕即位後も北方異民族の防衛に当たり、骨進を斬って威名を轟かせた。 曹芳の代には并州刺史、衛尉を歴任した。 |
鄧艾(トウガイ) |
197?264 字は士戴。 魏の将。司馬懿に才を見いだされ、蜀攻略戦で活躍する。鍾会と組んで蜀を滅ぼすが、のちに対立。 鍾会の讒言によって捕らえられ、護送の途中で暗殺された。 |
董衝(トウコウ) |
?-219 魏の将。樊城の曹仁を救出するため、龐徳らとともに出陣し、関羽と戦う。 龐徳の旧主・馬超が蜀軍にいるため、龐徳を先鋒にするのは危険ではと進言するが、曹操に退けられた。 関羽の水攻めで追いつめられ、董超とともに龐徳に降伏を勧めたが、龐徳に討たれる。 |
董昭(トウショウ) |
字は公仁。 魏の臣。袁紹、張楊に仕えた後献帝に議郎として仕えた。 曹操が献帝を擁すると許への遷都を進言。のち曹操に魏公の位を賜るよう上奏した。 曹仁が関羽に包囲されると、孫権の荊州侵攻を関羽に知らせ、後退する関羽を背後から討つ策を提案する。 曹丕の代に大鴻臚となり、曹叡の代には司徒に就任した。 |
董超(トウチョウ) |
?-219 魏の将。樊城の曹仁を救出するため、龐徳・董衝・于禁らとともに出陣し、関羽と戦う。 一時は龐徳の奮戦で関羽を窮地に立たせたが、関羽の水攻めで追いつめられた。 董衝とともに龐徳に降伏を勧めるが、怒った龐徳に、董衝ともとも討たれた。 |
文欽(ブンキン) |
?-257 字は仲若。魏の将。楊州刺史。司馬師による曹芳廃立に怒り、反乱を起こす。 司馬師の陣を急襲しようとしたが道に迷い、敗れて呉の孫峻を頼る。 のちに諸葛誕が魏に反乱すると呉将として救援するが、籠城策を巡り諸葛誕と対立し斬られた。 |
文聘(ブンペイ) |
?-? 字は仲業。 魏の将。もと劉表配下。長坂橋の戦いや赤壁の戦いなどに参加し、曹操死後も曹丕に仕えた。 曹真・張遼らとともに呉討伐に向かうが、呉の徐盛の奇策にかかって大敗する。 正史では、のちに後将軍となり、新野候に封ぜられたとある。 |
卞喜(ベンキ) |
?-200 黄巾賊。流星鎚の使い手。のち曹操に仕えて、沂水関を守る。 劉備のもとへ赴く関羽を謀殺しようと鎮国寺に兵を伏せて待ち構えた。 しかし、寺の僧侶である普浄が合図したため、見破られて逆に関羽に斬られる。 |
満寵(マンチョウ) |
?-242 字は伯寧。 魏の臣。楊奉の配下だった徐晃を説得し、曹操の配下に加えた。 樊城が関羽の軍に囲まれた際は、城を死守するよう曹仁に進言。関羽軍の撃退に成功する。 |
楊脩(ヨウシュウ) |
186?219 字は徳祖。 魏の臣。後漢の大尉・楊彪の子で、袁術の甥にあたる。 漢中攻防戦で曹操が発した「鶏肋」という言葉を撤退命令と解釈し、勝手に撤退準備を始めたため、処刑された。 曹操が楊脩の才を警戒したためともいう。 |
李典(リテン) |
174?209 字は曼成。 曹操配下の武将。旗揚げの頃から曹操に従った歴戦の勇士。 学問好きで、性格は慎重かつ冷静、同僚の暴走を度々抑えた。張遼、楽進とともに合肥を守備する。 |
劉延(リュウエン) |
?-? 東郡の太守。官渡の戦いでは、袁紹配下の顔良が白馬に向かっていることを曹操に知らせ、 当時曹操に降っていた関羽に顔良を討たせる。 その後、劉備の消息が知れ、劉備のもとへ戻ろうとする関羽に、黄河の渡し場は夏侯惇配下の将が守っていることを伝えた。 |
劉劭(リュウショウ) |
?-? 字は孔才。 魏の将。諸葛亮の第五次北伐に呼応して、孫権が魏に侵攻すると江夏の防衛に向かう。 曹叡に命じられて陸遜の計の裏をかき、挟撃作戦を阻止。呉軍の機先を制して孫権を撤退させた。 正史によると、魏の法令制定に着手し、詩文や音楽にも通じるなど多才な人物だった。 |
劉曄(リュウヨウ) |
?-? 字は子陽。正史では子楊。 魏の臣。後漢の皇族。郭嘉の推挙で曹操配下となる。対袁紹戦では投石車を発案して敵の櫓を撃退。 さらに坑道を掘り進む敵を堀割で防がせるなど、官渡の勝利に貢献した。 その後も多くの献策や進言を行い、曹氏三代に渡って信任される。 |
呂建(リョケン) |
?-? 曹操配下の将。徐晃の副将として関羽討伐に従軍する。 呂蒙が荊州を奪ったのち、徐商とともに関羽軍を攻撃し、樊城の包囲を解いた。 |
呂虔(リョケン) |
?-? 字は子恪。曹操配下の将。劉曄に推挙されて、満寵とともに校尉に任ぜられた。 呂布との戦いでは薛蘭を射殺し、曹操の兗州奪還に貢献した。 その後、官渡の戦い、赤壁の戦いなどに参加。 224年の曹丕の呉討伐戦で、許褚とともに中護軍として参加するが、大敗を喫した。 |
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