HOME > 戦国無双chronicle3(クロニクル3)攻略TOP > 戦国辞典 一般武将【は~】
戦国辞典 一般武将【は~】
戦国無双chronicle3(クロニクル3)攻略 戦国辞典 一般武将【は~】を掲載しています。は |
|
拝郷家嘉 はいごう いえよし |
1549-1583 柴田家臣。勝家に従って北陸征伐で戦功をあげた。1580年、加賀大聖寺城主となった。 勝家と羽柴秀吉の衝突が間近に迫ると、勝家の下で転戦。賤ヶ岳の戦いで奮戦するが、福島正則に討たれた。 |
垪和康忠 はが やすただ |
不明-不明 北条家臣。評定後、越相同盟終結の際に使者を務め、厩橋城代として東上野を治めるなど、内政、外交面で活躍した。 主家滅亡後は伊豆に隠棲した。 |
箸尾高春 はしお たかはる |
1546-1615 筒井家臣。大和の豪族。はじめ筒井順慶と争ったが、その妹を娶り、和睦した。 筒井家の伊賀転封には従わず、豊臣秀長に属す。関ヶ原の戦いでは西軍に属して所領を失う。 大坂の陣では豊臣方に味方し、大坂城に入城した。 |
長谷川橋介 はせがわ きょうすけ |
不明-1573 織田家臣。秀一の叔父。桶狭間の戦いで織田信長に最初に従った五人のうちの一人。 のち信長の勘気を蒙り、織田家を追放。徳川家康に仕え、三方ヶ原の戦いで討死した。 |
長谷川秀一 はせがわ ひでかず |
不明-1594 織田家臣。「竹」の名で織田信長に仕え愛された小姓。のち奉行として活躍。 本能寺の変の際は、徳川家康の堺見物の案内役を務めており、神君伊賀越えに同行した。 賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉につき、柴田軍に属した滝川一益と伊勢で戦う。 小牧長久手の戦いでは豊臣秀次に属し中入り部隊に加わり、徳川軍の奇襲を受け奮戦するも敗退した。 紀州攻め、小田原攻めにも参陣した。 |
蜂須賀小六 はちすか まさかつ |
1526-1586 豊臣家臣。秀吉の墨俣築城に、前野長康と共に協力して以来、秀吉に惚れこみ、参謀となる。金ヶ崎撤退戦、毛利攻めに活躍。 本能寺の変の際、毛利家との和睦成立に尽力。中国大返しを成功に導く。 四国討伐後、阿波一国を与えられるが、秀吉の側近くにいることを望み、領国に足を踏み入れることはなかったという。 |
蜂須賀至鎮 はちすか よししげ |
1586-1620 豊臣家臣。小六の孫。家政の子。関ヶ原合戦では東軍に属し、戦後、家督相続。 大坂の陣でも戦功を立て、淡路一国を加増された。内政においては、塩田開発などを行った。 |
蜂屋頼隆 はちや よりたか |
1534-1589 織田家臣。黒母衣衆の一人。斎藤家を経て織田信長に仕える。以後は遊軍を率いて各地で活躍した。 本能寺の変後は豊臣秀吉に属し、越前敦賀5万石を領した。九州征伐にも従軍したが、その2年後に死去。 子がなかったため、蜂屋氏は断絶となった。 |
服部小平太 はっとり こへいた |
不明-1595 織田家臣。名は一忠。桶狭間の戦いで今川義元に一番槍をつけた。のちに秀吉に仕え、黄母衣衆となる。 小田原討伐の功により、伊勢一志郡に3万5千石を与えられ、松坂城主となった。 その頃、尾張伊勢を領していた秀次につけられるが、のちの秀次事件に連座して改易。上杉景勝に預けられたのちに、自害した。 |
馬場信房 ばば のぶふさ |
1514-1575 武田家宿老。武田四名臣の一人。信虎、信玄、勝頼の3代に仕えた。 70あまりの合戦に参加し一度も負傷せず「不死身の鬼美濃」の異名を取った。 長篠の戦いで殿軍を務め、勝頼を無事落ちのびさせた後、討死した。 |
浜田景隆 はまだ かげたか |
1554-1591 伊達家臣。通称伊豆守。人取橋の戦い、大崎合戦、摺上原の戦いなどで伊達政宗の陣代を務める。 葛西大崎一揆鎮圧時で攻城戦中、銃弾を受けて討死。遺言により、その遺体は甲冑を着けたまま、城をにらむ形で埋められた。 |
林秀貞 はやし ひでさだ |
不明-1580 織田家臣。信長の一番家老。信長の弟を当主にすべく、柴田勝家と共に信長に叛旗を翻すが、敗北。 その後許されて外交内政に重臣として活躍する。 しかし、それから20年以上過ぎた1580年、突如、信長に過去の謀反を責められ、追放された。 |
林主水 はやし もんど |
不明-不明 斎藤家臣。西美濃十八将の一人。斎藤道三と斎藤義龍が争った長良川の戦いで、林氏は双方に分かれて戦った。 主水は義龍につき、小牧源太と共に斎藤道三を追い詰めた。 |
速水守久 はやみ もりひさ |
不明-1615 豊臣家臣。はじめ浅井家に仕え、浅井家滅亡後、秀吉に仕えた。近習組頭として小牧長久手の戦いや小田原討伐に従軍。 秀吉没後は、その子・秀頼に仕え、七手組頭の一人となる。大坂夏の陣では、真田幸村とともに奮戦。 その後、主君・秀頼に殉じて自害した。 |
原田宗時 はらだ むねとき |
1565-1593 伊達家臣。叔父の戦死後、伊達家老家である原田家を継ぐ。摺上原の戦いで活躍した。 伊達者として知られ、刎頸の友・後藤信康と共に3m近い大太刀を金鎖で繋いで駿馬にまたがって現れ、京童の評判となった。 若くして病死。伊達政宗はその死を悼み「南無阿弥陀仏」の6文から始まる和歌6首を捧げている。 |
原長頼 はら ながより |
1544-1600 織田家臣。柴田勝家の与力。信長死後、勝家の配下として羽柴秀吉と戦った。勝家が滅ぶと前田利家に属し、のちに秀吉の直臣となる。 関ヶ原の戦いで石田三成に味方し、清州城攻めを献策したが、三成には容れられなかった。 関ヶ原本戦に参加しようとしている時に西軍敗北の報に接し、自刃して果てた。 |
原昌胤 はら まさたね |
1531-1575 武田家臣。地理に明るく、合戦時の陣の構築や、部隊の配置などの判断が非常に的確であったため、 陣場奉行として、武田信玄に重く用いられた。1575年、長篠の戦いで討死。 |
壇団右衛門 ばん だんえもん |
1567-1615 豊臣家臣。大坂の陣で活躍した。剛勇だが、酒ぐせが悪く、また戦場で配下を忘れて単騎突入するなど広い視野に欠ける面があった。 夜襲成功時に「夜討ちの大将、壇団右衛門」と書いた木札をばらまき、評判になった。 |
ひ |
|
比江山親興 ひえやま ちかおき |
不明-1588 土佐の大名・長宗我部元親の従兄弟。戸波親武の弟。豊臣秀吉の四国征伐のおりには阿波岩倉城を守った。 九州征伐で元親が嫡子・信親を失い、四男・盛親を跡継ぎに立てようとしたのに猛反対し、元親の不興を買って切腹させられた。 妻子も殺され、彼らが悪霊・「七人みさき」となったという伝説が残る。 |
久武親直 ひさたけ ちかなお |
不明-不明 長宗我部家臣。親信の弟。家中で最も悪名高い人物。 政略に優れ、長宗我部元親に重用されたが、自身の栄達のためには手段を選ばず、策謀や讒言で多くの同僚を自害に追い込む。 結果的に主家滅亡の一因を作った。 |
久武親信 ひさたけ ちかのぶ |
不明-1579 長宗我部家臣。親直の兄。誠実で分別があり、元親から厚い信頼を受けた。 有馬温泉で湯治中に羽柴秀吉と知り合い、その人柄に傾倒したという。南伊予の攻略を任される。 伊予岡本城で敵将・土居清良の策にかかり銃弾に倒れた。死の間際元親に、弟・親直は重用しないようにと言い残した。 だが元親は親直を重用。長宗我部はお家騒動で傾いていく。 |
土方彦三郎 ひじかた ひこさぶろう |
不明-1556 織田家臣。名は信治。久治とも。 織田信長に従い、斎藤道三を救うため長良川の戦いに出陣するが、道三を討ち、勢いに乗った斎藤義龍に敗れて命を落とす。 子の雄久は信雄、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、大名にまでなった。 |
日根野弘就 ひねの ひろなり |
1518-1602 豊臣家臣。はじめ斎藤家に仕える。斎藤道三にその子・義龍が反逆した際、義龍に味方して、義龍の弟たちを殺した。 その後、斎藤家を攻める織田信長と戦う。主家滅亡後は浅井長政に仕え、浅井家が滅亡すると、羽柴秀吉配下となる。 「日根野鉢」など、実用的な武具を自作して評判を取った。関ヶ原の戦いで西軍に通じたとされ、壮絶な自害を遂げた。 |
平岩親吉 ひらいわ ちかよし |
1542-1612 徳川家臣。家康の人質時代からの家臣。三河統一などで功を立てた。 家康の子・松平信康を補佐したが、信康切腹にともない謹慎。やがて許され、徳川十六神将の一人に数えられる見事な働きをした。 |
平塚為広 ひらつか ためひろ |
不明-1600 豊臣家臣。怪力で薙刀の名手。中国攻め小牧長久手の戦い、小田原攻めで活躍。 1600年、石田三成の挙兵を止めようとする大谷吉継の使者を務めた。関ヶ原の戦いでは西軍につく。 吉継と共に小早川秀秋の裏切りを警戒し、暗殺しようとしたが果たせなかった。 秀秋が東軍に寝返ったのち、善戦するも孤立、討死。娘も怪力で、戦後捕らわれようとしたが、捕り手4人を撲殺して逃走した。 |
平手汎秀 ひらて ひろひで |
1553-1573 織田家臣。織田信長の傅役・平手政秀の三男とも孫とも。 武田信玄の侵攻を受けた徳川家康への援軍として三方ヶ原の戦いに参陣。 武田の猛攻で味方が総崩れとなる中、一人踏み止まって討死。喘息持ちだったという。 |
平野長泰 ひらの ながやす |
1559-1628 豊臣家臣。賤ヶ岳七本槍の一人。小牧長久手の戦いでは、敗走する羽柴秀次を助けた。 関ヶ原の戦いでは東軍に属す。大坂の陣直前、徳川家康に大坂方に味方したいよしを告げたが、江戸城に留め置かれた。 七本槍でただひとり大名になれなかったが、明治まで家名を保った。 |
弘中方明 ひろなか かたあき |
不明-不明 大内家臣。隆包の弟。水軍を率い、冷泉隆豊、小早川隆景と共に大内水軍を担い、神辺城の戦いで活躍した。 厳島の戦いには参戦せず、毛利元就の防長経略軍に戦わずして降伏した。 以後、毛利水軍の一翼を担い、吉川元春を支えて九州の戦いに活躍した。 |
ふ |
|
福富秀勝 ふくずみ ひでかつ |
不明-1582 織田家臣。信長に小姓として仕え、赤母衣衆となる。信長入洛の際には援軍・足利義昭を警護。 長篠の戦いでは、前田利家、佐々成政らと鉄砲大将を務めた。本能寺の変が起こると、二条御所で織田信忠と共に奮戦し、討死した。 |
福留儀重 ふくとめ よししげ |
1549-1586 長宗我部家臣。童謡にも歌われた家中屈指の猛将で、主家の四国統一事業に大きく貢献した。 主君・元親が禁酒令を発した際、酒樽を砕いてこれを諌めたという逸話が残る。戸次川の戦いで島津軍と戦い、討死した。 |
藤田行政 ふじた ゆきまさ |
不明-1582 明智光秀の家臣。五宿老の一人。浅井朝倉との戦いの頃から、光秀に仕える。 本能寺の変に先立ち、謀反の計画を光秀に告げられていた。 山崎の戦いを前に、筒井順慶の元に参戦を要請する使者に立つが順慶は動かなかった。山崎の戦いでは本陣右備を受け持った。 奮戦し、6ヵ所に傷を負い、戦場を脱出後、自害。 |
藤林長門守 ふじばやし ながとのかみ |
1559-1616 伊賀忍者。名は正保。保豊とも。服部半蔵、百地三太夫と並んで伊賀の三大上忍の一人に数えられる。 経歴は謎に包まれており、第二次天正伊賀の乱で信長を手引きしたとも。百地三太夫と同一人物でもあるともいう。 |
古川九兵衛 ふるかわ きゅうべえ |
1527-1602 明智家臣。本能寺の変の際、安田国継、箕浦大内蔵と共に先陣を切った「明智三羽鳥」の一人。 光秀が山崎の戦いで敗死したあとは、牢人し、のちに浅井幸長に仕えた。 |
古田織部 ふるた しげなり |
1544-1615 豊臣家臣。名は重然。利休七哲の一人。武将として戦歴を重ねる一方で茶、陶芸の世界で名声を博す。 織部焼の創始者で諸大名の茶の師匠を務めた。 関ヶ原の戦いでは東軍に属し、大坂の陣にも徳川方として参陣したが、豊臣方への内通疑惑によって自害させられた。 |
不破直光 ふわ なおみつ |
不明-1598 織田家臣。勝光とも。光治の嫡男。父に従い、小谷城攻略、長島攻めなど各地を転戦した。 本能寺の辺後、柴田勝家の使者として羽柴秀吉と折衝。しかし講和はならず、賤ヶ岳で佐久間盛政軍に属し秀吉と戦った。 敗戦後、前田利家に仕え末盛城の戦いで先陣を務め、佐々成政と戦った。肥満していたという。 |
不破光治 ふわ みつはる |
不明-1580 織田家臣。はじめ斎藤家に仕え、稲葉一鉄、安藤守就、氏家ト前らと並び、「西美濃四人衆」と呼ばれた重心だった。 信長の美濃攻略のとき配下となる。越前攻略の戦功から、柴田勝家の与力となり、 前田利家、佐々成政と並んで府中三人衆の一人に数えられた。 |
へ |
|
戸次統常 べっき むねつね |
1565-1587 大友家臣。通称右近太夫。鎮連の子。母は志賀氏の女。弟に戸次統利。妻は吉弘鎮信の娘。豊後鎧々岳城主。 大友義統と父・鎮連より一字ずつ賜り統連(むねつら)と名乗るが、 鎮連が島津家に内応したとして自害に追い込まれたため、統常と改名する。 父の汚名をそそぐため、戸次川の戦いでは、新納大膳と死闘を繰り広げ、一族共々と討死した。 |
戸波親武 へわ ちかたけ |
不明-不明 長宗我部家臣。長宗我部元親の従兄弟。比江山親興の兄。 土佐一条家攻めに巧があり、戸波城を落とし、その城主となって戸波姓を名乗る。 その後、四国平定に活躍。豊臣秀吉の四国征伐時は、讃岐植田城に籠もった。 |
ほ |
|
北条氏邦 ほうじょう うじくに |
1541-1597 北条家臣。氏康の四男。上野方面軍司令官として活躍。 配下の猪俣邦憲が真田家の名胡桃城を奪取し、豊臣秀吉の小田原討伐を招く。 籠城に反対し、出撃を唱えるが退けられる。鉢形城を守るが前田利家の大軍による侵攻の前に降伏。 |
北条氏忠 ほうじょう うじただ |
不明-1593 氏康の六男。本能寺の変直後の徳川家との武田領争奪戦で活躍。 下野の領主・佐野宗綱(昌綱の子)の養子となり、佐野氏忠を名乗る。 豊臣秀吉の小田原討伐では相模と駿河の国境にある足柄城を守ったが落城。小田原城に入り、籠城した。 |
北条氏照 ほうじょう うじてる |
1540-1590 氏康の三男。武蔵滝山城(のちの八王子城)城主。下野下総方面の軍事、外交を担当する。 豊臣秀吉の小田原討伐に対して、徹底抗戦を主張した。小田原落城後に、秀吉から切腹を命じられた。 |
北条氏直 ほうじょう うじなお |
1562-1591 北条家の第5代当主。氏政の子。本能寺の変で織田信長が殺されると関東にある織田領を攻め、北条領とした。 その後、天正壬午の乱で徳川家康とにらみ合いになるが、戦後、家康の娘をめとり同盟を結ぶ。 豊臣秀吉に小田原城を落とされると高野山に追放された。 |
北条氏規 ほうじょう うじのり |
1545-1600 氏康の五男。人質として今川家にいた頃に同じ境遇の徳川家康と知り合う。 北条氏直に代わり上洛するなど、豊臣秀吉と北条家の和睦に尽力した。 秀吉の小田原討伐では、韮山城に籠城するが、家康の説得で開城。小田原城開城後は氏直に従って高野山に赴く。 のちに秀吉に許され、河内国河内郡6980石を宛がわれた。 |
北条氏房 ほうじょう うじふさ |
1565-1592 氏政の三男。武蔵岩槻城主。反北条の急先鋒太田資正の岩槻太田家を乗っ取る。 秀吉の小田原討伐の際、小田原城に籠城したが、家臣の守る岩槻城が落ちたと知り、兄・氏直に降伏を勧めた。 |
北条氏政 ほうじょう うじまさ |
1538-1590 北条家第4代当主。氏康の次男。 武田信玄や上杉謙信と戦い、あるいは同盟を結びながら、一方で着々と関東諸侯を屈属させ、 相模から上野にまたがる大領国を築く。1590年、豊臣秀吉の小田原討伐軍に降伏。自刃する。 |
北条氏光 ほうじょう うじみつ |
不明-1590 氏康の九男。相模と駿河の国境である要衝・足柄城主をつとめ、武田信玄の駿河侵略に対抗した。 秀吉の小田原討伐で北条家が滅亡した後は、氏直と共に高野山に入り、その地で没した。 |
北条綱房 ほうじょう つなふさ |
1529-不明 北条家臣。はじめ福島弁千代と名乗る。北条綱成の弟。容色優れた美男。氏康に小姓として仕えた。 河越夜戦では、兄の籠もる河越城への使者に名乗り出て、ただ一騎で敵中突破。 彼の美しさに敵包囲軍8万が動けずにいる中、ゆうゆうと任務を果たした。 のち家老五色備えの下に位置する北条二十衆に数えられた。 |
星野吉兼 ほしの よしかね |
不明-1586 筑後の豪族。筑後十五城の一。筑後鷹取城主。名は鎮胤とも。吉実の兄。 はじめ大友家に属すが、耳川の戦い後、秋月家そして島津家に属す。 豊臣家の九州征伐軍から撤退する島津家の殿軍を務め、筑前高鳥居城を守るが、1586年、立花宗茂に攻められ討死。 |
星野吉実 ほしの よしざね |
不明-1586 筑後の豪族。筑後十五城の一。名は鎮元とも。吉兼の弟。 島津家に属し、九州征伐時「豊臣の大軍を前に一戦もせず退くのは武門の恥」と 兄と共に筑前高鳥居城に踏みとどまって戦い、立花宗茂の攻撃の前に玉砕した。 |
細川忠興 ほそかわ ただおき |
1563-1646 細川藤考の子。妻は明智光秀の娘・ガラシャ。 本能寺の変の際、織田信長を滅ぼした光秀から味方するよう求められるが拒否。 ガラシャを丹羽山中に幽閉した。関ヶ原の戦いでは東軍に味方している。 |
細川藤考 ほそかわ ふじたか |
1534-1610 足利家臣。主君・義輝の横死後は義輝の弟・義昭の将軍就任に貢献した。 その後は義昭を見限り、明智光秀と共に織田信長に仕える。本能寺の変で光秀を見限り、入道して幽斎と名乗る。 その後も的確な情勢判断で細川家の命脈を保った。万能に達した文化人で、古今伝授を受けていることでも有名。 |
細川頼範 ほそかわ よりのり |
1561-1628f 豊臣家臣。元勝とも。信良の子。母は織田信長の妹であるお犬の方。秀頼に近侍し、小姓頭を務めた。 大坂の陣では豊臣方に属す。大坂落城後、命を許され、秋田家の客将として余生をまっとうした。 |
堀田盛高 ほった もりたか |
不明-1615 豊臣家臣。秀頼の親衛隊「七手組」の一人。関ヶ原の戦いでは石田三成の挙兵を徳川家康に告げる功を立てた。 大坂の陣では豊臣の将として参戦。大坂落城時、二の丸の石垣の上で自害。 |
堀尾忠晴 ほりお ただはる |
1599-1633 徳川家臣。祖父は豊臣三中老の一人・吉晴。父・忠氏が、若くして死んだため、幼くして家督を相続。 祖父の後見を受ける。大坂の陣で戦功を上げたが、若くして嗣子なく死去。堀尾家は断絶した。 |
堀尾吉晴 ほりお よしはる |
1544-1611 豊臣家臣。三中老の一人。情に厚く「仏の茂助」と称された。山崎の戦いで天王山に一番乗りするなど、多くの戦功をあげる。 秀吉没後は豊臣家重臣として徳川家康と前田利家の対立回避に尽力した。 |
堀秀政 ほり ひでまさ |
1553-1590 織田家臣。信長の寵愛を受けた側近。文武両面に才を発揮し「名人久太郎」と呼ばれた。 本能寺の変後は、山崎の戦いから羽柴秀吉に従い、小牧長久手の戦い、九州征伐などで活躍。 小田原討伐の後は関東を任せられると噂されるほどの信頼を得ていたがその陣中で病没した。 |
本庄実乃 ほんじょう さねより |
1511-1575 上杉家臣。幼い上杉謙信の才を見抜き、謙信を自らの居城・栃尾城に招いて補佐した。 越後が乱れると、当時当主だった謙信の兄を隠居に追い込み、謙信を当主に据え、直江景綱と並んで上杉家の政権の中枢を担った。 第四次川中島の戦いにも参戦している。一説に謙信が死去した時に殉死したとも伝わる。 |
本庄繁長 ほんじょう しげなが |
1540-1614 上杉家臣。独立旺盛な北越後の国人・揚北衆の一人。謙信に従って川中島の戦いや関東遠征で功をあげる。 1568年には武田信玄に通じて反乱。戦いは1年におよぶが結局、帰参した。 謙信没後、御館の乱で上杉景勝について活躍した。 |
本庄主税 ほんじょう ちから |
不明-不明 島津家臣。戸次川の戦いにおいて、伊集印久春、新納大膳に続く三番手として出陣する。十河存保ら讃岐衆を攻撃した。 |
本多重次 ほんだ しげつぐ |
1529-1596 徳川家臣。天野康景、高力清長と並ぶ三河三奉行の一人。 長篠の戦いのおりの日本一短い手紙「一筆啓上火の用心」で有名。 「鬼作左」の異名をとる。三河武士の典型。忠義で偏屈な逸話を数多く残している。 豊臣秀吉の老母・大政所が徳川家の人質となった際、 その周りに大量の薪を積んで家康の身に何かあれば焼き殺すと脅すなどしたため、秀吉の怒りを買い、閉居処分となった。 |
本多忠真 ほんだ ただざね |
1531-1573 徳川家臣。忠勝の叔父。桶狭間の戦いの前哨戦で、忠勝の初陣を補佐。窮地の忠勝を槍を投げて助けた。 また自分が取った敵の首を忠勝に与えて功にさせようとしたが、 忠勝は「他人の力で武功を立てようと思わない」と敵に斬りこみ、見事独力で功を立てた。 三方ヶ原の戦いでは左右に旗印を突き刺して「ここより後には一歩も退かぬ」と宣言。その言葉通り武田軍に突っ込み、討死した。 |
本多忠朝 ほんだ ただとも |
1582-1615 徳川家臣。本多忠勝の次男。父同様の猛将で、関ヶ原の戦いで活躍。だが大坂冬の陣では泥酔して敗退。 「父に似ぬ者」と家康に叱責される。続く夏の陣で汚名を返上せんと奮戦。毛利勝永隊に突入、激闘の果てに討死する。 |
本多忠政 ほんだ ただまさ |
1575-1631 徳川家臣。本多忠勝の子。小田原討伐が初陣。関ヶ原の戦いでは家康の後継者・秀忠に従った。 途中、真田親子に足止めされ、主戦場に遅参した。大坂の陣でも秀忠に従った。のちに姫路城主となる。 |
本多正信 ほんだ まさのぶ |
1538-1616 徳川家康の謀臣・はじめ家康の鷹匠を務める。三河一揆で家康と敵対して出奔。 一時期、松永久秀に属し、のちに加賀一揆に加わり織田信長と戦った。諸国放浪の末帰参。 関ヶ原前夜には謀略を巡らし家康の天下取りを決定づけた。徳川秀忠に従い、第二次上田城の戦いに参陣。 その後も行政と謀略に力を発揮し草創期の幕府を支えた。家康には友と呼ばれ信頼されたが、武功派の同僚には憎まれた。 |
┃トップページ
┃サイトについて
┃お問い合わせ
┃プライバシーポリシー
当サイトは個人で運営されています。
当サイト内に記載されている文章や画像の無断転載は禁止しています。
各企業様、メーカー様とは一切関係がございません。
Copyright 2024 xgamemania.com All Rights Reserved