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戦国辞典 戦地
戦国無双chronicle3(クロニクル3)攻略 戦国辞典 戦地を掲載しています。会津 |
現在の福島県西部。伊達家勢力下にあったが豊臣秀吉の奥州仕置で 政宗や徳川家康など要警戒大名への押さえのため蒲生氏郷や五大老の一人・上杉景勝に任せられた要地だった。 関ヶ原の戦いに先だって、家康は景勝の謀反を口実に諸大名を率いて 会津討伐軍を起こし、石田三成ら西軍の挙兵を待った。 戦後も東北に対する関東の守りとして加藤家、松平家ら徳川家康の信頼厚い有力大名が置かれた。 |
安土城 |
現在の滋賀県近江八幡市にあった豪華絢爛な山城。1579年、織田信長が築城した。 五層七重の天守を持ち、近世城敦の手本となる。 総石垣造りで、普請を任された石垣職人集団である穴太衆の名が全国に知れ渡った。 信長が横死した混乱の中、天守や本丸が焼失する。清州会議後、織田秀信が入城するが、のちに廃城となった。 城郭内に建立された摠見寺の三重塔や仁王門が現存している。 |
姉川 |
1570年、織田・徳川軍2万5千が浅井・朝倉軍1万8千を討ち破った戦場。 琵琶湖の東北部を流れる姉川は当時100m程の川幅があったという。 はじめ浅井軍・磯野員昌の猛攻で織田軍は13段構えの11段まで破られている。 しかし、徳川軍の榊原康政らが横合いから朝倉軍を崩し、織田・徳川軍はかろうじて勝利。 以後、朝倉義景は武田家や三好家と結び信長包囲綱を張って織田家に対抗する。 |
厳島 |
古代より信仰の対象とされており、平安時代、平清盛が現代にも残る社殿を造営した。 日本三大夜戦の1つ・厳島の戦いの舞台。毛利元就は厳島に城を築き、敵対している陶晴賢を誘い出す。 晴賢は大軍を率い、厳島に上陸。元就は暗闇に乗じて厳島に近づき、早朝、晴賢に奇襲をしかけた。 陶軍は逃げだそうとしたが、船はすべて毛利軍に押さえられており、晴賢をはじめ、多くの命が散った。 |
稲葉山城 |
斎藤氏の居城。現代では金華山と呼ばれる。難攻不落と言われたが、 酒色に溺れた城主・斎藤龍興を諌めるため、斎藤家臣・竹中半兵衛が数十名で乗っ取ってみせた。 1567年、斎藤家の重臣・美濃三人衆の内応により、織田信長が美濃に侵入。 稲葉山城を落とし、斎藤氏を滅ぼした。信長は中国・周王朝の文王が 岐山より天下を平定したのにちなみ、稲葉山城を岐阜城と改名し、居城とした。 |
上田 |
真田氏の居城。真田昌幸が築城した。昌幸は、この城に拠って2度までも徳川軍を撃退した。 1度目は1583年の天正壬午の乱の時で、昌幸の策略の前に徳川軍は大混乱に陥り、多数の被害を出して撤退した。 2度目は関ヶ原の戦い、1600年のことである。昌幸とその子・幸村が関ヶ原を目指す徳川秀忠と交戦。 秀忠は上田城を攻めあぐねた挙げ句、関ヶ原の本戦にも遅参する失態を演じた。 |
江戸城 |
現在の東京にある日本最大級の城。15世紀に太田道灌によって築かれたのが始まりという。 小田原征伐後、江戸に入った徳川家康が大規模な改修をする。 やがて江戸幕府が開かれると、家康は諸大名に命じて江戸城の拡張工事を行った(天下普請)。 1657年の明暦の大火で天守などの多くの城構が焼け落ちた。 江戸幕府が滅ぶと東京城と改名され、政府が東京に移ると皇居となった。 |
遠州 |
現在の静岡県西部。古代、浜名湖が「遠つ淡海(とおつあわうみ)」と呼ばれ、遠江の語源となった。 今川家の支配下にあったが、桶狭間の戦いで今川義元が戦死すると、 遠江の豪族たちは今川家に叛旗を翻し、遠江は戦乱の地となった(遠州錯乱)。 その中心的な役割を果たしたのが曳馬城の飯尾家である。 徳川家康が遠江に侵攻して曳馬城を落とし乱を平定。曳馬城を浜松城と改名し居城した。 |
大坂 |
石川本願寺の寺内町として発展した町。本願寺は織田信長と対立し、1570年から10年間、激しい戦いが行われた。 戦いは顕如が退去したことで信長の勝利に終わる。 信長の死後、豊臣秀吉が天下人の威を示すため、跡地に大坂城を築いた。その大きさは安土城を上回った。 秀吉の死後、豊臣家と徳川家が対立。大坂城は二度に渡って家康に攻められ焼失、豊臣家は滅亡した。 |
桶狭間 |
織田信長の武威を天下に轟かせた戦いの舞台。 現在の愛知県名古屋市緑区有松町または豊明市栄町のあたりであったといわれる。 1560年5月今川義元は京に上り天下に号せんと四万の大軍を率いて進撃を開始した。 進軍路にある織田の滅亡は必至と思われたが、信長は、桶狭間で休息を取っている今川軍を急襲。 乱戦の末に織田軍は義元の首級をあげ、奇跡的な大勝利を得た。 |
小田原 |
北条氏の居城。北条氏初代・早雲以来、関東制覇の本営として拡張を重ね、 第4代・氏政の頃には、城下町を囲む大外郭「総構」を備えた戦国随一の巨城となった。 対して、天下人・豊臣秀吉は小田原を完全包囲し、小田原近くの石垣山に一夜にして巨大な城を出現させる。 北条氏は豊臣の力を語り、ついに降伏した。北条氏の領土は徳川家康に与えられ、家康は家臣の大久保忠世に治めさせた。 |
川中島 |
武田信玄と上杉謙信が5度戦った戦場。 信玄は信濃侵攻に端を発する両雄の戦いは、3度は小競り合いに終わるが、4度は戦史に残る死闘となった。 謙信は妻女山に布陣。対して信玄は軍勢を二分し挟撃する「啄木鳥戦法」で挑むが、謙信に見抜かれ危機に陥る。 信玄自らが謙信の刃を軍配でかわす逸話が残るほどに肉迫されたが、別動隊が合流し立て直す。 両雄の雌雄はついに決さずに終わった。 |
関東 |
室町時代、関東は、室町幕府に任じられた鎌倉公方が統治していた。それを補佐していたのが関東管領である。 だが、両者の仲は悪く、関東の豪族を巻き込み、権力争いを繰り返していた。 鎌倉公方嫡流の古河公方を掌握した北条氏に、関東管領を継承した上杉謙信が挑んだ戦いがいわゆる関東出兵である。 謙信は北条方を次々に撃破するが、謙信が去ると北条が盛り返し、一進一退の戦いが続いた。 |
九州 |
戦国期、北九州では大友宗麟が九州探題に任じられ、北九州6国を治めていた。西の肥前では龍造寺隆信が急速に台頭。 また南では薩摩の島津氏が近隣諸豪を圧倒するようになる。 耳川の戦い、沖田畷の戦いなど三つ巴の激しい抗争の結果、島津氏が九州統一をほぼ確実にする。 しかし、宗麟が時の天下人・豊臣秀吉に救援を要請し、その九州征伐の結果、島津氏は屈服。 秀吉の天下に組み込まれた。 |
京都六条 |
織田信長の支援を得て上洛した足利義昭は、六条堀川の本国寺を仮御所とし、政務を執った(六条御所)。 信長が京を離れた隙を狙って、三好三人衆は本国寺を襲撃した(本国寺の変、六条合戦)。 変を収めた信長は、本国寺の建築物を二条に移し、二条城の築城を急いだ。 のち本国寺は、徳川光圀(水戸黄門)から圀の字を下されて、本圀寺と改め、現在は六条から山科に移されている。 |
上月城 |
兵庫県西部の山城。播磨、美作、備前三国の国境に位置する要所。 毛利家の同盟国・宇喜多家の勢力下にあったが羽柴秀吉に奪われ 宇喜多家は播磨攻略の拠点として毛利家に奪還協力を要請していた。 時に東播磨の三木城が織田信長に背いており、 毛利輝元は上月城より前に戦線を押し上げるべきだったのだがそうせず、物量と時間をかけ上月城を攻略。 そのため三木城は落城し攻勢の機を失った。 |
小牧長久手 |
織田信長の死後、羽柴秀吉と徳川家康がその後継の地位を争った戦場。 現在の愛知県北西部にある小牧市、長久手町にあたる。 先に要地・小牧山に陣を張った家康に対し、攻めあぐねた秀吉は、戦場を大きく迂回して 家康の本拠・三河を大軍で奇襲する「中入り」作戦を試みたが、家康に察知され、大損害を出して失敗する。 その後、秀吉は得意の調略で家康と講和。天下人への道を突き進む。 |
信貴山城 |
奈良県北部にあった山城。大和の大名・松永久秀が改修し、大和制圧の拠点とした・ 大規模な城で多くの曲輪が築かれ、まだ珍しかった天守も建てられたと伝わる。 一時、三好三人衆に攻め取られるが久秀は、織田信長の傘下に入って奪い返した。 久秀が信長に謀反を起こすと籠城したが、織田信忠に包囲され、天守で茶釜・平蜘蛛と共に自爆したという。 |
四国 |
戦国期、土佐の長宗我部元親は精悍な一領具足の力と、明智光秀を介しての織田信長との同盟を背景に、四国統一を進めていた。 対して、天下布武を目指す信長は方針を変え、四国征伐に乗り出し、3方面より攻略作戦を展開。 元親は抵抗したが、次々と陥落していく拠点を前に、ついに秀吉に膝を屈した。 |
賤ヶ岳 |
織田信長の死の翌年、羽柴秀吉と柴田勝家がその後継を巡り争った戦場。琵琶湖と余呉湖の中間にある。 両軍にらみ合いを続けていたが、秀吉の後背・美濃で柴田方の織田信考が挙兵し、秀吉が一時離脱。 その隙に柴田軍・佐久間盛政が秀吉方の大岩山砦を奪う。秀吉は、わずか5時間で舞い戻り、突出した盛政を強襲。 加えて柴田軍の前田利家らが勝手に戦場を離脱し、柴田軍は総崩れとなった。 |
関ヶ原 |
古代から軍事、交通の要衝であり、不破関が置かれた地。現在の岐阜県不破郡関ヶ原町にあたる。 豊臣秀吉の没後、徳川家康と石田三成が衝突。1600年9月15日早朝、関ヶ原の戦いが始まった。 東軍7万、西軍8万。数は互角であったが、小早川秀秋の寝返りを契機に、西軍は崩壊する。 西軍の将・大谷吉継は必死に支えたが、力尽きて玉砕。午後2時頃には東軍勝利が決定的になった。 |
立花山城 |
九州北部の山城。現在の福岡県福岡市にあった。鎌倉時代末期、大友貞戴が築き立花氏を名乗り居城とした。 1565年に立花鑑戴が毛利家に寝返ったため、戸次鑑連(立花道雪)が滅ぼし、城主になる。 島津家が攻めてきた際は、立花宗茂が籠城し、徹底抗戦した。宗茂が柳川に転封になると、小早川隆景が入城する。 関ヶ原の戦いが終わり、黒田長政の福岡城が完成すると廃城となった。 |
手取川 |
石川県南部を流れる川。上杉謙信と織田軍が戦ったされる戦場。1577年、上杉軍は能登に侵攻、七尾城を攻めた。 対して織田信長は柴田勝家を総大将に、羽柴秀吉、前田利家らを救援に出陣させる。 だが、七尾城は謙信により早々に陥落。 織田軍は加賀手取川を越えたところでそれを知り、撤退を開始する。 だが、手取川渡河中に謙信の追撃を受け、大損害を出して敗北したという。 |
長篠 |
織田・徳川連合軍と武田軍が激突した戦場。現在の愛知県南設楽にあたる。 織田徳川連合軍は設楽原に布陣。武田勝頼は敵陣の正面に布陣した。 信長は、3千丁の鉄砲を用い、武田の騎馬軍団を壊滅させたといわれるが、異説は多い。 貴重品であった鉄砲を3千丁を用意できたのか疑問視され、 武田軍にしても騎馬軍団といえるほどの騎馬を所有していたのかを示す資料は残っていない。 |
長良川 |
岐阜県から伊勢湾へ流れる河川。日本三大清流の一つ。水害が多く、集落を堤防で囲んだ「輪中」が形成されている。 美濃の大名・斎藤道三の子・義龍は、父を排除するため挙兵。両軍は、稲葉山城近くを流れる長良川を挟んでにらみ合いとなる。 道三の娘婿である織田信長は、道三救援に向かっていたが、渡河した義龍によって道三は討ち取られ、間に合わなかった。 |
戸次川 |
大分県別府湾へ流れる河川。現在の大野川の下流域が戸次川と呼ばれていた。 豊臣秀吉の九州征伐の際、四国勢の指揮を執る仙石秀久は、 秀吉の命令を無視して戸次川を渡って、島津家久の戦法・釣り野伏せにはまり、大きな被害を受ける。 これにより長宗我部元親は摘男・信親を失うこととなった。 島津軍は勢いに乗り、鶴賀城や内府城を攻略。秀吉が九州に到着するまで、豊後を侵攻し続けた。 |
本能寺 |
1582年6月2日未明、天下を目前にした織田信長が、家臣・明智光秀の謀反に倒れた「本能寺の変」の舞台。 現在の京都市四条西洞院にあった。規模は大きく、四方に掘を巡らせた城のような造りだったという。 この本能寺での信長の消失から時代は大きく動き始める。 光秀謀反の理由は光秀の野望、信長への怨根など百出するが、真相は不明のままである。 |
三方ヶ原 |
徳川家康が武田信玄と戦い、人生唯一の大敗を喫した戦場。現在の浜松市にあたる。 1572年、信玄は上洛軍を率い甲斐を出陣。武田軍は徳川の城を次々に落とし、浜松城を無視して西へと向かう。 家康は家臣の反対を押し切り武田軍の後背を突くべく出撃。だが武田軍は三方ヶ原で魚鱗の陣を張って待ち受けていた。 武田軍の猛攻に徳川軍は総崩れとなり、家康はかろうじて浜松に逃戻った。 |
柳川城 |
九州北部屈指の堅城。現在の福岡県柳川市にある。 「柳川三年肥後三月肥前筑前朝飯前」と謡われた落とすのに3年はかかる難攻不落の城で、 龍造寺隆信や立花道雪といった名将も落とすことができなかった。豊臣秀吉の九州征伐後、立花宗茂が治める。 関ヶ原の戦いで宗茂が西軍につき、本戦で西軍が敗れると、東軍の鍋島直茂、黒田官兵衛、加藤清正らの攻撃を受けた。 激戦ののち講和開城する。 |
山崎 |
羽柴秀吉が明智光秀を討ち破った地。1582年6月2日早朝、本能寺で織田信長は光秀に討たれた。 その情報をいち早く入手した秀吉は、交戦中だった毛利家と和睦を結び、驚異的な速度で京へ引き返した。 後に言う「中国大返し」である。秀吉は、秀吉に要地・天王山を押さえられ苦戦を強いられる。 結局、明智軍は敗北し、光秀は敗走中に命を落とす。本能寺の変から11日後のことだった。 |
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