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武将列伝 一般武将【た~】
戦国無双4攻略 武将列伝 一般武将【た~】を掲載しています。武将列伝は流浪演舞に出現する一般武将・無双武将と出会うことで追加されて閲覧可能になる 無双武将は友好度を最大にすることで閲覧可能になる |
た | |
大道寺政繁 だいどうじ まさしげ |
1533-1590 北条家臣筆頭格・三家老の一人。北条氏の主要な戦いで先陣を切り、功を成す。 豊臣秀吉の小田原討伐の際、最前線・上野松井田城を守ったが、前田利家らの大軍を前に降伏。 そのまま豊臣軍に加わり、武蔵忍城への道案内や、八王子城攻めなどに攻撃軍中で最も活躍した。 しかし戦後、秀吉の命により切腹させられた。 |
高木清秀 たかぎ きよひで |
1526-1610 徳川家臣。徳川十六神将の一人。 はじめ水野信元に仕え、石瀬の戦いで石川数正と一騎討ちを演じ、 三河一向一揆では徳川家康の援軍としてその窮地を救い、 長篠の戦いでは真田信綱と一騎討ちするなど、数多くの武功を立てる。 信元粛清後は佐久間信盛、信盛粛清後は織田信長に仕えた。 本能寺の変後、家康に仕え、小牧長久手の戦い、小田原城攻めに参陣。生涯45の戦傷を受けたという。 |
高志清久 たかし きよひさ |
不明-1582 三好家臣。阿波五条城主。通称右近。中富川の戦いで十河存保に属し、長宗我部元親の侵攻軍を迎え撃ち、戦死。 |
高玉常頼 たかたま つねより |
不明-1589 二本松畠山家臣。 二本松城陥落後、主君である二本松国王丸が蘆名家を頼ったため、常頼も蘆名家に属し、伊達政宗に抵抗を続けた。 片倉小十郎に攻められ、討死。その後は落城し撫で斬りにされた。 |
高梨政頼 たかなし まさより |
1508-1576 上杉家臣。信濃の豪族。北信濃の覇権を巡って村上義清と争う。 武田信玄の侵攻を受けると義清と和睦して信玄に対抗。 しかし武田家の猛攻に抗しきれず、義清と共に越後の上杉謙信を頼る。 その後は上杉家に属し、川中島の戦いで先鋒を務めるなど活躍した。 |
高野大膳 たかの だいぜん |
1540-1621 立花家臣。道雪、宗茂に仕えた。立花四天王一人に数えられる。 耳川の戦い後大友家に叛旗を翻した秋月種長、筑紫広門らとの戦いに活躍。 関ヶ原の戦い後、立花家が改易されると主君・宗茂と共に流浪。立花家柳川復帰の翌年、死去。 |
高橋景業 たかはし かげあきら |
不明-1573 朝倉家臣。鳥居景近と共に朝倉義景の側近として仕えた。 義景が織田信長に敗北し、朝倉景鏡の勧めで賢松寺に逃れると同行。 その後、信長に通じた景鏡軍に攻められ、義景は自害。その後を追った。 |
高橋紹運 たかはし しょううん |
1548-1586 大友家臣。吉弘鑑理の次男。立花道雪と共に衰微する大友家を支えた猛将。 子は請われて道雪の養子となった立花宗茂。筑前岩屋城を、島津家2万の大軍に囲まれ、降伏を進められるも断固拒否。 わずか7百の城兵を率いて凄まじい抵抗を見せたのち、玉砕して果てた。 |
高橋種冬 たかはし たねふゆ |
不明-不明 筑前の豪族・秋月文種の三男。秋月種長は次兄。 父と長兄・晴種が大友家に滅ぼされると種実と共に毛利家を頼って落ち延びる。 種実が毛利家の援助で復帰すると、種冬は、兄が妻を大友宗麟に奪われた挙げ句に殺され 復讐に燃える元大友家臣・高橋鑑種の養子となって豊前小倉城に入り、父の仇・大友氏に抵抗した。 |
高橋虎松 たかはし とらまつ |
不明-1582 織田家臣。織田信長の小姓。本能寺の変の際、信長を守るため、台所で明智勢の侵入を食い止めようと戦い、討死。 『信長公記』に「比類なき働き」と讃えられている。 |
高松頼邑 たかまつ よりさと |
不明-1585 長宗我部家臣。讃岐喜岡城主。はじめ香西佳清に仕え、佳清が長宗我部元親に降ると共に傘下に入った。 賤ヶ岳の戦いで、元親が柴田勝家を支持したため、羽柴秀吉配下・仙石秀久の攻撃を受けたが、これを撃退。 その後の秀吉の四国征伐時には2百の兵で、宇喜多秀家ら率いる2万3千の兵と戦い、一族郎党ひとり残らず討死した。 |
高山重友 たかやま しげとも |
1552-1615 摂津高槻城主。通称、右近。熱心なキリスト教徒。彼の領地はキリシタンの拠点となる。秀吉に改宗を迫られて断り、改易。 のち幕府の禁教令により国外追放となり、翌年、マニラで病没した。優れた茶人で利休七哲に数えられる。 |
滝川一益 たきがわ いちます |
1525-1586 織田家臣。織田四天王の一人。伊勢北畠家攻略で活躍する。 武田討伐後、東国取次となり、関東の主と呼ばれ、強大な権力を振るった。 しかし、本能寺の変後、信長の死を知った北条軍に攻められて惨敗。伊勢に逃げ戻り、織田家での地位は失墜した。 賤ヶ岳の戦いでは、柴田勝家に協力し、秀吉の背後を脅かすが、秀吉の勢いに抗しきれず、降伏した。 |
滝川益氏 たきがわ ますうじ |
1527-1635 織田家臣。滝川一益の甥、もしくは従兄弟。一説に前田慶次の父。通称儀太夫。 同じく一益の甥、慶次の父と目される滝川益重とは同一人物か、少なくとも事跡の混同がある。佐治新介とも。 一益に属し武田征伐に活躍。本能寺の変後、賤ヶ岳の戦いでは、一益の下、伊勢亀山城を奪い、羽柴軍の攻囲を受けたが善戦。 戦後、羽柴秀吉に取り立てられ、以後、小牧長久手、九州征伐に参陣した。 |
田北鎮周 たきた しげかね |
1543-1578 大友家臣。武勇に優れ、毛利家との戦いで活躍した。耳川の戦い出陣には反対。 しかし、戦場に出ると、意思統一が取れず、厭戦気分の味方に激怒。 味方を鼓舞すべく、島津軍に無謀な突撃を敢行し、討死した。 これをきっかけに大友軍は統率の取れないまま開戦することになり、島津軍の釣り野伏戦術の前に大敗を喫することになる。 |
武田勝頼 たけだ かつより |
1546-1582 信玄の四男。母は諏訪御寮人。信玄死後息子・信勝が武田家を継ぎ、自身は陣代として武田家を率いた。 戦に強く、父信玄も落とせなかった要衝・高天神城を攻略するなど攻勢に出るが、長篠の戦いで織田徳川軍に大敗。 また御館の乱で上杉景虎を見捨てて北条家とも対立し孤立。 1582年織田徳川軍による武田討伐を受けると次々と家臣の離反を招く。 天目山の戦いに敗れ自害。武田家は滅亡した。 |
武田信勝 たけだ のぶかつ |
1567-1582 甲斐の大名、武田家最後の当主。勝頼の子。 母は織田信長の養女で、武田・織田両家の友好関係樹立のため武田信玄の子である勝頼と結婚していた。 信玄は死に臨んで、信勝を当主とし、勝頼を信勝の陣代として当主代理を務めるよう言い残した。 長篠の戦いに武田家が敗れたあと織田家との友好関係改善のため元服するが、織田家の武田攻撃は止まらず、 1582年、天目山の戦いに敗れ自害した。 |
武田信廉 たけだ のぶかど |
1528-1582 信玄の弟。「逍遙軒」と称する。絵画に巧みで、数々の作品を残す。 兄・信玄に容姿が似ていたため、影武者を務めたといわれる。 1582年、織田・徳川軍の甲斐侵攻の後、府中相川で処刑された。 |
武田信繁 たけだ のぶしげ |
信玄の弟。武田家の副将。「典厩(てんきゅう、左馬助の別称)」と呼ばれた。 川中島の戦いで「啄木鳥」戦法の裏をかかれ、上杉軍の猛攻にさらされた時に、自らの命と引き換えに兄を守った。 後年「まことの武将」と高く評価される。 |
武田信豊 たけだ のぶとよ |
1549-1582 信玄の弟。信繁の子。「後典厩(ごてんきゅう)」と呼ばれ、川中島で父が戦没すると後を継ぎ、武田家の副将格であった。 長篠の戦いでは早々に退却。高坂昌信は彼の責任を問い、処刑を主張した。 木曽義昌が織田家に寝返ると、その討伐軍を任されるが、敗北して逃走。織田家の侵攻を招く。 武田家滅亡時に家臣の裏切りに遭い、自害。 |
武田信虎 たけだ のぶとら |
1494-1574 甲斐守護。家中の対立勢力を滅ぼして甲斐を平定。本拠を躑躅ヶ崎に定めて今川家や北条家に対抗する。 しかし苛烈な政策方針が嫡男・信玄と対立。謀略によって駿河に追放された。 今川義元の庇護下に置かれたが、義元死後、遠州錯乱を煽動、駿河乗っ取りを企てて失敗し出奔。 伊勢北畠氏を頼り、その軍師として九鬼嘉隆を破った。その後、足利義昭に仕え甲賀で信長包囲綱に参加した。 |
武田義信 たけだ よしのぶ |
1538-1567 信玄の嫡男。甲相駿三国同盟により今川義元の娘を妻に迎える。 義元の戦死後、今川家との関係を巡り父・信玄と対立。 1565年、謀反の疑いで幽閉されて、その2年後、自害させられた。 |
竹中重門 たけなか しげかど |
1573-1631 豊臣家臣。半兵衛の嫡子。関ヶ原の戦いでは、はじめ西軍に属したが東軍に寝返り、黒田長政と共に奮戦。 戦後、小西行長を捕らえるなどして功を上げ、所領を安堵された。 文才に優れ、晩年には、豊臣秀吉の伝記『豊鑑』を著している。 |
竹中重利 たけなか しげとし |
1542-1620 豊臣家臣。半兵衛の従兄弟。小田原攻めに参陣。 関ヶ原の戦いでは、はじめ西軍に属していたが、黒田官兵衛に誘われ寝返り、石垣原の戦いに参戦。 戦後、豊後府内初代藩主となり、城下町を整備、現在の大分の原型を作った。 |
竹中重矩 たけなか しげのり |
1546-1582 織田家臣。半兵衛の弟。はじめ斎藤龍興に仕えるが、斎藤家滅亡後は兄と共に織田家に仕える。 姉川の戦いでは、浅井軍の勇将・遠藤直経が織田軍に入り込んでいたのを見抜き、討ち取った。 1582年、本能寺の変後、美濃国不破郡長佐村に郷土一揆が起こり、戦死。 |
竹俣慶綱 たけのまた よしつな |
1524-1582 上杉家臣。父は為綱。謙信の側近。謙信死後は景勝に属し、奉行を務める。 1581年から越中松倉城在番となる。1582年、越中魚津城に籠もり、織田軍の攻撃をよく防ぐが、城兵と共に戦死。 |
立花道雪 たちばな どうせつ |
1513-1585 大友家臣。立花城主。生涯を軍陣で過ごした家中随一の猛将。 若い頃に落雷に遭い、歩行不能となるが、輿に乗って常に大友軍の先陣を切り、「鬼道雪」と恐れられた。 軍事、行政面で主君・宗麟を補佐した。 |
立花直次 たちばな なおつぐ |
1572-1617 大友家臣。高橋紹運の次男で立花宗茂の弟。剣豪・柳生宗矩の門弟。 兄が立花家に養子に行ったため高橋家を継ぎ、高橋統増と名乗った。 岩屋城の戦いでは宝満山城を守るが、岩屋城落城を聞き、島津軍が直次を解放するのを条件に開城。 しかしそれは島津軍の罠で直次は捕らえられてしまった。 関ヶ原の戦いでは兄と共に西軍に属し、大津城の戦いに活躍。大坂の陣では徳川家についた。 |
立原久綱 たちはら ひさつな |
1531-1613 尼子家臣。山中鹿介の叔父。主家が毛利家に滅ぼされたのち、鹿介と共に尼子勝久を擁して主家再興を図る。 播磨上月城籠城に反対しながらも、鹿介と共に戦い敗北。毛利軍に捕らえられるが、脱走して、阿波で余生を送った。 |
楯岡光直 たておか みつなお |
1565-不明 最上家臣。最上義光の弟。上杉軍が長谷堂城に迫った時、数千の精兵を率い救援した。 のち、義光の後を継いだ家親が、光直邸を訪れた直後に絶命したため、 毒殺の嫌疑をかけられたが、証拠不十分として罪に問われることはなかった。 その後、甥・山野辺義忠を擁して、家親の後を継いだ義俊と対立。最上騒動となる。 |
楯岡満茂 たておか みつしげ |
1547-不明 最上家臣。楯岡家は最上家の庶流で最上八楯に属し、父は天童氏と共に最上義光と争ったが敗れて自害。 満茂は後を継いで最上家に従った。以後、隣国の小野寺家との戦いで活躍。 東北の関ヶ原・長谷堂の戦いには参加せず、西軍に属した小野寺家ににらみを利かせた。 出世するごとに所領の地名に姓を次々と変え、ついには最上最高の四万五千石を領した。 |
伊達成実 だて しげざね |
1568-1646 伊達家臣。実元の子。片倉小十郎、鬼庭綱元と並び伊達の三傑と称される。 文武両道の将で伊達軍団の中核として活躍。英毅大略あり 勇武無双、と称された。 兜に毛虫が意匠され、それは決して後ろへは退かぬ彼の決意を現していた。後に伊達政宗の一代記『成実記』を記した。 |
伊達輝宗 だて てるむね |
1544-1585 伊達家16代当主。政宗の父。家中の統治を進めながら、最上家、相馬家と争った。 早くより嫡子・政宗の才を見抜き、家中の反対を封じるため、電撃的に隠退して家督を政宗に譲った。 翌年、二本松義継に拉致され、救援に来た政宗率いる伊達軍の銃撃に巻き込まれ死亡した。 |
伊達秀宗 だて ひでむね |
1591-1658 政宗の子。人質として豊臣秀吉の下で暮らし、聚楽第で元服。 徳川家康の天下でも人質として江戸に移るなど不遇な環境で育つが、大坂冬の陣の功で伊予宇和島10万石に封ぜられた。 |
田中吉政 たなか よしまさ |
1548-1609 徳川家臣。はじめ豊臣秀次に仕えた。東軍で関ヶ原の戦いに参戦。岐阜城攻め、佐和山城攻略などで活躍。 戦後、伊吹山で敵将・石田三成を捕縛する大功をあげた。この時、三成を厚く遇したという。 戦後、筑後・柳川32万石の領国を与えられ、用水路の整備に努めた。 |
谷川大膳 たにかわ だいぜん |
不明-不明 高橋紹運の家臣。名は鎮実。 岩屋城落城時、立花山城に使いに行っていて落城を知らず、帰還した際、島津軍に捕らわれる。 島津に仕えないかという誘いを断り立花山城からの返書だけは見ないでほしい、 もし見るならば自分を殺してからにせよ、と言い放ち、島津軍を感嘆させ、解放された。 のち立花宗茂の要請で兵学師範となり、まもなく出家して全滅した岩屋城兵の菩提を弔った。 |
谷忠澄 たに ただずみ |
1534-1600 長宗我部家臣。土佐神社の神官。羽柴秀吉の四国征伐では、主君に降伏を説き、長宗我部家の家名を繋いだ。 豊後戸次川の戦いにも従軍。長宗我部元親の長男・信親が討死したとき、遺骸引取のため島津方への使者となった。 |
種子島久時 たねがしま ひさとき |
1568-1612 島津家臣。種子島家16代当主。兄が早世したため家督を継ぐ。豊後の大友氏、肥前の龍造寺氏との戦いに従軍。 父・時尭の代に伝来した鉄砲の扱いに優れ、名をとどろかせた。 |
田原親賢 たわら ちかかた |
不明-1600 大友家臣。紹忍と号す。妹は大友宗麟の正室。宗麟の側近で宗麟の三男を養子に迎えている。 耳川の戦いでは総大将を務めるが、諸将の統制が取れずに大敗。大友家改易後は中川秀成に仕える。 関ヶ原の戦いでは、中川家の旗印を持ち出し、旧主・大友義統の下、石垣原の戦いに参戦。 敗戦後、中川家に戻り、中川家存続のため、中立の立場の太田一吉を攻め、佐賀関の戦いで討死。 |
田原親貫 たばる ちかつら |
不明-1580 大友家臣。大友家の最も強大な分家・田原宗家は大友家から警戒されており、 親貫の養父・親宏は功を立てながら冷遇され、謀反しようとした矢先に病死した。 親貫も、主君・大友義統が、田原家の家督を大友宗麟の次男・親家に継がせようと画策したことに怒り謀反。 毛利家や北九州の豪族と結んで、大友家と戦ったが敗れた。その後の消息は不明。いまだ十代後半だった。 |
多目元忠 ため もとただ |
不明-1590 北条家臣。周防守。北条五色備え「黒備え」の大将。北条氏康の軍師を務める。赤備えの北条綱高は軍学の弟子である。 河越夜戦では後詰めとして戦場全体を俯瞰して指揮を執り、上杉連合軍の大軍を破った。 北条家と武田家が不和になると武田軍に対する備えとして活躍した。 |
団忠正 だん ただまさ |
不明-1582 織田家臣。織田信忠の側近。武田討伐では、織田信長の命令を無視し、森長可と共に突出、 敵を鉄砲で襲い、信長に叱責を受けたが、その9日後にも長可と共に勝手に敵を襲うという血気盛んな人物であった。 本能寺の変では信忠に従い、二条城に籠城。明智軍と戦い討死した。 |
丹波良寛 たんば りょうかん |
不明-不明 大友家臣。筑後の豪族・筑後十五城の一人。高良山座主。 その居城・吉見嶽城は筑後の要地であり、大友氏の筑後平定の拠点となり、また九州征伐の時、豊臣秀吉の陣所だとなった。 耳川の戦いで敗れ大友氏が衰退すると、龍造寺隆信に攻められ追放される。 のち秀吉により座主の座を弟に譲らされた。その後、弟は秀吉により謀殺された。 |
ち | |
筑紫広門 つくし ひろかど |
1556-1623 九州北部の小大名。惟門の子。 毛利、大友、龍造寺、島津ら周囲の列強の間で寝返りと服従を繰り返し、のちに豊臣秀吉に降る。 関ヶ原の戦いで西軍に属して、改易された。 |
千葉胤富 ちば たねとみ |
1527-1579 下総の大名・千葉氏第27代当主。先代が隣国の北条氏康の意向を受けて暗殺されると家督を継ぐ。 家中の軍制を再編。北条家との関係を強化して周辺の敵を撃退。 上杉謙信の関東出兵時には北条家に援軍を送り、里見家に一時小弓城を奪われるが、北条家の支援を得て奪還している。 謙信の関東管領就任式では、小山高朝と一番の座を争い、謙信の裁定で首座を得て、千葉家の誇りを関東に示した。 |
千葉直重 ちば なおしげ |
不明-1627 下総の大名。千葉氏30代当主。北条氏政の七男。 千葉胤富の子で先代の邦胤が家臣のおならを注意して暗殺されると、その娘を妻として家督を継ぐ。 豊臣秀吉の小田原討伐で北条家が滅亡すると兄・氏直に従い高野山に登る。のち蜂須賀家に仕えた。 |
長宗我部親吉 ちょうそかべ ちかよし |
不明-1585 元親の叔父。元親の父・国親の弟。武勇に優れ、兄や甥を助けて奮戦した。 秀吉の四国征伐のおりには黒田官兵衛と戦うが、その策に屈し開城。土佐へ帰還する途中、土豪に襲われて殺された。 |
長宗我部信親 ちょうそかべ のぶちか |
1565-1586 元親の長男。若くして智勇兼ね備え、人望が厚かったことから、織田信長が養子に迎えようとしたとされる。 将来を期待されていたが秀吉の命で九州征伐に参陣し、戸次川の戦いで討死した。 元親の落胆ぶりは、尋常ではなかったという。 |
長宗我部盛親 ちょうそかべ もりちか |
1575-1615 元親の四男。家臣の反対を押し切り当主となった。関ヶ原の戦いで西軍につき、お家断絶。 復興のため、大坂の陣では豊臣方について奮戦。大坂城五人衆の一人に数えられる。 大坂城落城の前日、逃亡したが、捕らえられる。命惜しさに生きのびたことを嘲笑われてなお命乞いをしたが、 徳川家康は、盛親がなんとしても生きのびて再度志を遂げようとしていることを見破り、処刑した。 |
長連龍 ちょう つらたつ |
1546-1619 能登畠山家重臣。続連の三男。 1577年、上杉謙信の畠山家攻めに際し、織田家へ援軍要請へ向かっている間に、親上杉派により城が降伏。 一族は皆殺しにされた。その後、織田家に属して旧領奪還と復讐を果たした。 のちに前田利家の寄騎となり、本能寺の変後は、利家の家臣に加わっている。 |
つ | |
津田重久 つだ しげひさ |
1549-1634 明智家臣。細川家、三好家、足利将軍家などに仕えたのち、明智光秀に仕えた。 本能寺の変では、織田信長の刀剣類を保護。山崎の戦いにも参戦。 光秀の死後は、羽柴秀吉に仕え、賤ヶ岳の戦いなどに従軍。 その後は前田家に仕え、関ヶ原の戦いで東軍に属し、大聖寺城を攻めた。 |
津田信春 つだ のぶはる |
不明-不明 明智家臣。一説に重久と同一人物、あるいはその子とも。 山崎の戦いで、明智軍の左翼を受け持つが、 池田恒興、池田元助、加藤光泰の奇襲を受けて崩れ、ここから明智軍の戦線が崩壊していった。 |
津田秀政 つだ ひでまさ |
1546-1635 徳川家臣。織田家の同族・津田家の出。 はじめ滝川一益に属し、神流川の戦いに一益が敗れると、上野松井田城の手勢で伊勢まで一益を守り抜いた。 その後、織田信雄、豊臣秀吉、徳川家康に仕える。 関ヶ原の戦い前夜、会津征伐の陣で家康に褒美に何が欲しいかと問われ、 西軍の安国寺恵瓊が所持する有明の茶入れを所望して、家康に来たるべき天下分け目の戦いに大勝してほしいと暗に激励した。 |
津田元嘉 つだ もとよし |
不明-1582 織田家臣。織田信長の妹婿。滝川一益に属す。 朝倉家滅亡後の越前を、越前三奉行として、名目上の守護・前波吉継の下実権を握り、統治した。 富田長繁が反乱を起こすと、元嘉らも襲われるが、朝倉景健らの仲介で越前を脱出する。 武田征伐後、武田家、六角家に味方した恵林寺を焼き討ち、老若男女問わず焼殺した。 本能寺の変では、織田信忠と共に二条城に籠もり、明智軍と戦い、討死した。 |
土橋宮内 つちはし くない |
不明-1600 上杉家臣。直江兼続に仕えた。長谷堂の戦いでは大瀬口より最上領深くに進軍。 東軍諸城を攻略したが、長谷堂の撤退戦が始まると、深入りしすぎていたため、退却できず、討死した。 |
土橋守重 つちばし もりしげ |
不明-1582 雑賀衆。紀伊雑賀の地侍。信長が石山本願寺を攻めると、顕如に従い、息子四人と共に戦った。 信長に降伏後、雑賀孫市と仲が険悪になり、殺害された。守重が孫市の親族を殺した遺恨だといわれる。 |
土屋昌次 つちや まさつぐ |
1544-1575 武田家臣。三枝守友、木曽昌世、真田昌幸、甘利信忠、長坂昌国と並ぶ奥近習六人衆の一人。 武田信玄側近として政務に活躍した。川中島の戦いが初陣。三河方面の戦で活躍。 三方ヶ原の戦いでは、敵将を一騎討ちで破り、勇名をとどろかせた。 信玄が死んだ時、殉死を願い出たが止められる。長篠の戦いで討死した。 |
土屋昌恒 つちや まさつね |
1556-1582 武田家臣。昌次の弟。剛毅にして容姿端麗。長篠の戦いで兄が戦死すると家督を継ぐ。 織田信長の武田討伐が始まると武田家臣が次々と離反する中、最後まで武田勝頼に忠義を貫いた。 天目山の戦いで勝頼自害の間を稼ぐべく、谷間の狭い道で、片手にツタを握りしめ、片手で織田の大軍と戦い討死。 「片手千人斬り」の異名を得る。その武勇と忠義を徳川家康が称賛、昌恒の子を秀忠の小姓とした。 |
筒井定次 つつい さだつぐ |
1562-1615 大和の大名。順慶の従兄弟でその養子となり後を継ぐ。側近政治が島左近ら老臣の反発を買い、離反を招く。 関ヶ原の戦いでは東軍につくが、豊臣家と徳川家が対立しだすと改易され、 大坂の冬の陣の後、豊臣家への内通を疑われ自害されられた。 |
筒井順慶 つつい じゅんけい |
1549-1584 大和の大名。戦国一の梟雄・松永久秀に城を奪われるが、明智光秀の尽力で支配権を取り戻す。 山崎の戦いでは恩人の光秀の誘いを断り中立を保った。この対応が「洞ヶ峠を決め込む」の語を生んだ。 |
角隅石宗 つのくま せきそう |
不明-1578 大友家臣。武田流、小笠原流などの軍学に通じており、主君・宗麟の軍師を務めた。 宗麟の日向遠征に反対したが、容れられず、秘伝の書を焼いて覚悟の出陣。耳川の戦いで戦死した。 |
妻木広忠 つまき ひろただ |
1514-1582 明智家臣。妻木城主。妻木家は、明智光秀と同じく、美濃守護・土岐家の一族。 姪・煕子(弟・範煕の娘)は光秀の妻。山崎の戦いで光秀が敗れた際、近江坂本で自害。 |
津森幸俊 つもり ゆきとし |
不明-不明 尼子家臣。勝久、義久二代に仕え、寺社奉行を務めた。尼子家滅亡後、山中鹿介率いる尼子再興軍に呼応した。 |
鶴姫 つるひめ |
1526-1543 伊予河野家臣。伊予大三島の大山衹神社の大宮司の娘。 兄の陣代として、大内義隆の軍勢を撃退。敵将を討ち取った。義隆は陶晴賢に大軍を授け、再攻撃をかける。 鶴姫は恋人と共に迎え撃ち、少数の兵ながら隙を突いて逆転、敵を退ける。しかし恋人は戦いの中、討死。 鶴姫も後を追い自害した。鶴姫のものとされる紺糸裾素懸威胴丸は、日本に現存する唯一の女性用胴丸である。 |
て | |
寺沢広高 てらざわ ひろたか |
1563-1633 豊臣家臣。秀吉の側近として、長崎奉行となり、貿易統制に従事した。 秀吉の死後、家康に接近。関ヶ原の戦いでは東軍に与して戦った。戦後、肥前唐津12万石の大名となる。 |
と | |
土井利勝 どい としかつ |
1573-1644 徳川家臣。水野信元の子。土井利昌の養子となった。徳川家康の落胤という説もある。 家康の子・秀忠に幼少の頃から近侍し、関ヶ原の戦いの際も行動を共にした。 江戸幕府では重く用いられ、老中を経て大老まで務めた。 |
東条実光 とうじょう さねみつ |
不明-1585 阿波の豪族。甲斐武田氏の出と言う。長宗我部元親に攻められ、その養女を妻として降伏。 豊臣秀吉の四国征伐時には、阿波木津城を守り、羽柴秀長、黒田官兵衛ら率いる大軍に抵抗するが、開城。 土佐に戻るが、元親によって処刑された。 |
藤堂高吉 とうどう たかよし |
1579-1670 丹羽長秀の子。本能寺の変の後、長秀取り込みのため、 秀吉が弟・秀長の養子とするが、丹羽家の力が不要になると、秀吉は秀長に廃嫡を迫った。 そこで秀長の家臣で子のなかった藤堂高虎が養子に貰い受けた。 関ヶ原の戦い、大坂の陣に活躍、領国・伊予今治の統治にも才覚を発揮した。 しかし高虎に実子が生まれると廃嫡され、冷遇された。 |
遠山綱景 とおやま つなかげ |
1513-1564 北条家臣筆頭頭・三家老の一人。江戸衆筆頭。江戸城代として二の丸を預かる。 連歌師・宗牧を江戸に招き、連歌会を催した。 娘婿・太田康資の裏切りに端を発する第二次国府台合戦の際には、責任を感じて先鋒を務めて先行。 里見軍と激戦の末、戦死した。 |
遠山友忠 とおやま ともただ |
1531-不明 織田家臣。美濃苗木城主。たびたび武田軍の侵攻にさらされ、周辺諸城が武田家に降る中、孤軍奮闘した。 武田征伐の発端となった木曽義昌の寝返りを織田信忠に取り次いだのも彼だったという。 本能寺の変後、森長可と東美濃の覇権をかけて争ったが敗れ、逃亡。徳川家康を頼った。 |
遠山友政 とおやま ともまさ |
1556-1620 徳川家臣。美濃苗木城主・友忠の子、母は織田信長の姪でもともと織田家に属していた。 信長が死ぬと、森長可に襲われ城を奪われて徳川家を頼る。 関ヶ原の戦いで西軍に属していた苗木城を奪還し、功を認められ苗木城に復帰する。大坂夏の陣に参陣。 |
土岐定義 とき さだよし |
1580-1619 徳川家臣。土岐明智家を復興させ、小牧長久手の戦いで活躍した父のあとを継いだ。 徳川秀忠に属し、第二次上田城の戦い、大坂冬の陣に参戦。大坂夏の陣では江戸城の守備についた。 |
土岐頼元 とき よりもと |
不明-1608 徳川家臣。頼芸の四男。父の追放後は斎藤家の扶助を受ける。 斎藤家滅亡後は武田家、豊臣家に仕え、関ヶ原の戦いの後に徳川家康に属した。 |
徳川秀忠 とくがわ ひでただ |
1579-1632 家康の三男。真田親子の軍略にはまり、関ヶ原の戦いに遅参する。 実直な人柄を見込まれ兄の秀康を差し置いて徳川二代将軍となる。 外様大名を改易するなど、徳川政権の基盤を固めた。 |
徳川秀現 とくがわ ひでただ |
1545-1606 名は則秀。柴田勝家の与力。賤ヶ岳の戦いでは佐久間盛政の先鋒を務めた。 柴田家滅亡後、丹羽長秀に属し、丹羽家減封後前田利家に仕え、関ヶ原直前に出奔。 徳川家康に従い、美濃徳山に5千石を与えられた。 |
戸田一西 とだ かずあき |
1543-1604 徳川家臣。小田原攻めに参陣。関ヶ原の戦いでは第二次上田城の戦いに参戦。 上田城奪取にこだわる徳川秀忠を諫めたため、のちに徳川家康に賞された。 |
戸田勝成 とだ かつしげ |
1557-1600 豊臣家臣。もと丹羽長秀に仕え、長秀の死後、豊臣家に属す。小田原討伐などで功を立てた。 関ヶ原の戦いでは西軍につき、大谷吉継に属す。寝返って東軍についた小早川秀秋らと戦って討死。 東軍の諸将にもその死を惜しまれた。 |
富田重政 とだ しげまさ |
1564-1625 前田家臣。名人越後と呼ばれた剣豪。義理の伯父に、佐々木小次郎、鐘巻自斎の師である富田勢源がいる。 末盛城の戦いで一番槍を挙げ中条流富田家に養子に入る。小田原攻め、関ヶ原の戦いに参陣。 大坂の陣では、老境にありながら、19人の敵兵を倒した。 同じく老境、主君・前田利常に無刀取りを見たいと言われ、秘伝ゆえ人払いをと言って利常が目線を外した一瞬、その刀を奪ってみせた。 |
戸田忠次 とだ ただつぐ |
1531-1597 徳川家臣。徳川二十将の一人。 はじめ一揆に属し徳川家康と敵対するも、一揆勢から家康への内通を疑われ、怒り、家康についた。 掛川城の戦い、姉川の戦い、小牧長久手の戦い、小田原攻めに参陣。 老境にあって徳川家に戦あれば従軍すると豪語し、豊臣秀吉から「壮者の亀鑑」と称賛された。 |
富田長繁 とだ ながしげ |
1552-1575 朝倉家臣。織田信長に内通し、その配下となる。長嶋一揆鎮圧で大活躍したが、信長に冷遇されたため反逆。 同じ織田への寝返り組の朝倉旧臣・魚住景固、前波吉継、朝倉景鏡らを滅ぼす。やがて越前一揆衆とも対立。 14万の敵に7百で戦い勝利を収める。その後、朝倉景健らにも襲いかかるが、無謀な連戦に、部下が離反。 殺害され、若くして燃え尽きた。 |
十時惟久 ととき ただひさ |
1585-1600 立花家臣。関ヶ原戦後の立花城攻防戦で加藤清正、鍋島直茂の大軍と戦い、乱戦の中、討死。16才であったという。 黒猫を可愛がっており、その黒猫が惟久を討った兵士に襲いかかり、惟久の首を取り返して逃げてという伝説がある。 |
十時連貞 ととき つれさだ |
1556-1644 立花家臣。惟次の子。立花四天王の一人に数えられる。 立花道雪が立花宗茂を養子として迎えると、宗茂の小者として付けられた。 1587年の豊臣秀吉の九州征伐の際は、島津に捕らえられていた宗茂の弟と母を救出した。 関ヶ原の戦いののち、宗茂が改易されると牢人となり従う。 虚無僧の姿となり托鉢を行い、そのお金を宗茂らの食費にあてたという。 |
富永直勝 とみなが なおかつ |
1509-1564 北条家臣。北条五色備え「青備え」の大将。 江戸衆の一人で江戸城代として本丸を守り、二の丸に遠山綱景、三の丸に太田康資が入っていた。 1564年、康資が上杉家に寝返ったことで起きた第二次国府台合戦では、康資の離反に責任をを感じ、綱景と共に先行して討死した。 |
豊臣秀勝 とよとみ ひでかつ |
1569-1592 豊臣家臣。秀次の弟。秀吉の養子となり先に亡くなった秀吉の養子で信長の四男である羽柴秀勝の後を継いだ。 浅井長政とお市の三女・江を妻とする。 九州征伐に参陣。小田原征伐後、関東に入った徳川家康への備えとして甲斐信濃を領す。翌年、美濃に国替え。 その翌年、遠征先で病死。妻・江は徳川秀忠に嫁ぎ、豊臣秀頼の妻・千姫や徳川幕府三代将軍・家光などを産むことになる。 |
豊臣秀次 とよとみ ひでつぐ |
1568-1595 秀吉の甥。秀吉の数少ない肉親として重用され、1591年には関白に就任し、秀吉の後継者となる。 しかし、その2年後、秀吉に実子・秀頼が誕生したために疎まれ、秀吉に切腹を命じられた。 いわゆる「秀次事件」である。芸能を好む風流人だったと伝わる。 |
豊臣秀長 とよとみ ひでなが |
1540-1591 秀吉の弟。早くから秀吉を補佐し、兄の天下統一を助けた。 四国征伐では総大将を、九州征伐では日向方面の司令官を務める。 諸大名の信頼が厚く、秀吉政権のまとめ役であり、内のことは千利休が、公のことは秀長が掌握していたという。 1591年病死。 |
豊臣秀頼 とよとみ ひでより |
1593-1615 天下人・豊臣秀吉の子。母はお市と浅井長政の娘・茶々。秀吉の後を継ぐが、天下は徳川家康へとなびく。 大坂の陣では真田幸村の献策を受け、出撃しようとしたが、大野治長の反対により、実現しなかった。 大坂城陥落時に自害。 |
豊永勝元 とよなが かつもと |
1551-1637 長宗我部家臣。通称藤五郎。長宗我部三奉行の一人。阿波子時に敵将の調略に功があった。 関ヶ原の戦い後、長宗我部家が改易されると牢人。 大坂の陣では旧主・長宗我部盛親に従って豊臣方で参戦した。戦後、加藤家に仕えた。 |
鳥居強右衛門 とりい すねえもん |
1540-1575 徳川家臣。奥平家に仕えた。名は勝商。 長篠の戦いで、武田軍の厳しい攻囲を脱し、援軍を取りつけた帰り、武田軍に捕縛される。 援軍は来ないと城内に伝えれば厚遇すると言われたが、逆に援軍が来ることを城内に伝えた。 武田勝頼は怒り彼を磔にした。結果、長篠城は持ちこたえ長篠の戦いは武田軍の敗北に終わる。 その忠義と勇気に感嘆した武田軍に、彼の磔姿を旗印にした者がいたという。 |
鳥居忠広 とりい ただひろ |
不明-1573 徳川家臣。元忠の弟。徳川十六神将の一人。三河一向一揆で一時、徳川家康と敵対するが、戦後帰参。 姉川の戦いでは先陣を務めた。三方ヶ原の戦いでは、武田信玄当たるべからず、と説くが、 家康に臆病者と罵られ、討死覚悟で戦い、戦死した。 講談「湯水の行水」では成頼正義とケンカとなるが仲直りして、戦いに臨み、討死する姿が描かれている。 |
鳥居忠政 とりい ただまさ |
1566-1628 徳川家臣。元忠の次男。小牧長久手の戦いなどで活躍。関ヶ原、大坂の陣では江戸留守居を務めた。 父を伏見城に討った雑賀孫市が、元忠の遺品を返したいと申し出たとき、 丁重に応え、孫市の武勇の証として雑賀家に伝えてほしいと返還した。 最上家改易後、山形を領すが、最上家の遺徳を慕う山形民に徹底的に嫌われた。忠政に破壊消去することで応じた。 |
鳥居元忠 とりい もとただ |
1539-1600 徳川家臣。家康幼少時から仕える譜代の臣。徳川十六神将の一人。 関ヶ原の戦いでは、二千足らずの兵で伏見城に籠城。西軍数万と大攻防戦の末、城兵とともに玉砕した。 その忠節は「三河武士の鑑」と称賛された。 |
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