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列伝モード概況 他伝
真・三國無双3猛将伝攻略 列伝モード概況 他伝を掲載しています。貂蝉伝 董卓暗殺戦 |
【初期】 |
そのころ洛陽では、董卓が朝廷の実権を握っていた。勇将・呂布を従えた董卓には誰も逆らえない。 貂蝉は、そんな董卓に仕えながら苦悩の日々に胸を痛めていた。 貂蝉には、義父の司徒・王允から「呂布」を操り董卓を誅殺させる」という重要な使命が託されていた。 だが呂布はいまだ動かず、董卓の横暴はひどくなるばかりである。 ついに貂蝉は、自らの手で董卓を討とうと決意した。事は密なるを要する。 警護の目をかいくぐり、董卓のもとに迫るのだ。華やかな舞姫が漆黒の闇に身を染める! |
【クリア後/列伝記】 |
出身は不明。 司徒・王允の養女となり、実の娘のように可愛がられ育てられた。 貂蝉は諸芸の修得に励み、歌舞に優れた絶世の美女となった。 あるとき貂蝉は、苦悩する王允を見かねてわけを聞いた。 それは、董卓が暴政を振るうのを憂遠してのものだった。 貂蝉は、 王允の力になりたいと申し出た。 王允は頭を下げ、「連環の計」を仕掛けるよう頼んだ。 貂蝉は育ててくれた王允の恩に報いるため、董卓と呂布を仲違いさせて、これを滅ぼすことを引き受ける。 王允は貂蝉を呂布に与える約束をしておきながら董卓に献上した。 そこで貂蝉は、呂布の不満を煽るよう働きかける。だが、意に反し呂布は董卓には逆らわなかった。 貂蝉は焦りを覚え、ついに自らの手で計略を実行に移すことを決意する。 漆黒の闇に紛れ、警護の網をくぐり抜けていく貂蝉。 そして董卓に告別の一撃を捧げた。 使命を遂げた貂蝉は、その後消息を絶った。 董卓が滅んだことで世は群雄割拠の様相を呈し、三国による抗争となる。 その舞台に再び貂蝉が立つことはなかった。 |
呂布伝 虎牢関殲滅戦 |
【初期】 |
黄巾の乱が収まったのち、幼い帝を担いで権力を握ったのは董卓である。 その傍らには、つねに屈強な武将が得物片手に屹立し、誰も手を出すことはできなかった。 彼こそ、天下無双の勇将と名高い呂布である。 呂布は、董卓を義父と仰ぎ、その見返りに名馬・赤兎を手に入れる。 人は「人中の呂布、馬中の赤兎」と勇姿を称えた。 初平二年(191)、反董卓の旗を揚げ、各地の群雄が都の関門・虎牢関へと押し寄せる。 いまこそ呂布が最強の武を示すとき。連合軍の雑魚どもを蹴散らすのだ! |
【クリア後/列伝記】 |
字は奉先。五原郡九原県の人。 破格の剛力を誇り、その弓馬の術は前漢の名将・李広になぞらえて「飛将」と呼ばれたほどだった。 初め丁原の護衛を務めていたが、その勇姿に董卓が目を付けた。 世の戦乱に乗じて台頭した董卓は名馬・赤兎をもって呂布を誘う。 呂布は丁原を裏切り、董卓の傘下となった。 以来、董卓は呂布の武を背景に朝廷を牛耳っていった。 初平二年(191)、そんな董卓に反旗を翻した諸将が、都・洛陽の関門たる虎牢関に押し寄せた。 呂布は今こそ無双の武を示さんとばかりに、単身これを迎え撃つ。 呂布の強さに、並はずれていた。 腕に覚えの勇将たちが次々と挑みかかるが、その武の前に敢えなく散っていく。 呂布の行くところ、あまねく戦慄が走った。 連合軍は程なく敗北し、抵抗する勢力は消え去った。 辛うじて生き残った将兵も、自らの根拠地へと逃げ帰って身を潜めた。 かくして呂布の武名は天下に鳴り響いた。 やがて呂布の威勢は董卓をも陵駕する。叛心を抱いた呂布は、董卓を殺して覇権を握った。 その傍らには、かつて董卓の寵姫であった美女が寄り添っていたという。 |
董卓伝 十常侍討伐戦 |
【初期】 |
中平六年(189)、西涼の巨人が動いた。 黄巾の乱が沈静化したのち涼州で力を蓄えていた董卓は、 宮廷に巣くう宦官を抹殺せよ、との詔を受け、洛陽へと向かった。 当時の朝廷は、張譲を始めとする十人の宦官が徒党を組んで権勢を振るっていた。 この十常侍を一掃せんと、対抗勢力である大将軍・何進が各地に働きかけたのだ。 これぞまさに好機である。大軍を率いて入城した董卓は、たちまち三人の宦官を誅した。残るは七人。 このどさくさに権力を掴み、野望の実現に向けて踏み出すのだ! |
【クリア後/列伝記】 |
字は仲頴。郡臨洮県の人。 親分肌で腕力に優れ、弓馬もよくしたという。異民族の討伐などに力を振るい、のし上がった。 黄巾の乱が起こると、涼州の兵を率いて討伐軍に参加する。 董卓は、この機に一旗挙げようとしていたが、敗北して危うく処分されかけ涼州に帰還する。 だが、董卓の活躍の機会は、黄巾の乱が沈静化してから訪れた。 当時、朝廷では十常侍と呼ばれる宦官たちが権勢を振るっていた。 これを快く思わぬ大将軍の何進が、朝廷に巣くう宦官を誅殺せよとの密詔を各地に発したのである。 再び軍を整えた董卓は、洛陽へと乗り込み、宦官を手当たり次第に蹴散らした。 そして、帝を連れて城外へ脱出せんとしていた張譲を討ち、十常侍の一掃を果たした。 帝の身柄を確保した董卓は、帝を乗せた馬車を従えて、意気揚々と凱旋する。 それは、その後の帝と朝廷を象徴していた。董卓は朝廷を牛耳り、専横を振るったのだ。 董卓に反発した群雄は、討伐軍を興す。 董卓は長安に遷都し、帝位に即こうとしたが、呂布の裏切りに遭って生涯を終えた。 それは、梟雄に相応しい最期であった。 |
袁紹伝 界橋の戦い |
【初期】 |
華北の袁家といえば、人臣の最高位である三公を四代にわたり輩出した名門である。 その栄光を担う袁紹は、袁家を華北の支配者たらしめんと争いを繰り広げていた。 初平二年(191)、隣国の強敵である公孫瓚が、冀州の界橋へと攻め入ってきた。 公孫瓚は、白馬を集めて編成した「白馬義従」と呼ばれる騎馬隊を擁していた。 機動力を生かし、ひっきりなしに攻め寄せてくる騎馬軍団。 だが、名門の誇りにかけても退くわけにはいかない。 華北一の袁家となり、いずれ天下一の袁家となるのだ! |
【クリア後/列伝記】 |
字は本初。汝南郡汝陽の人。 四代に渡って三公を輩出した名門の袁家の血を受け継ぐ。 その志は誇り高く、威厳ある容貌は雅さをも備え、広く衆望を集めていた。 袁紹の名声には、諸国の群雄たち一目置いた。 逆臣・董卓を討伐せんと連合軍が結成された際は、 並み居る英雄たちを従えて盟主の大役を担ったほどであった。 その袁紹と対立したのが公孫瓚である。 初平二年(191)、武力をもってのし上がった公孫瓚は、 隣り合う袁紹の版図を奪おうと、冀州の界橋に攻め込んできた。 公孫瓚は白馬を好み、その騎馬隊は「白馬義従」と呼ばれて諸国に鳴り響いていた。 騎兵と猛将たちが続々と攻め来るが、袁紹は一歩も退かず、これを返り討った。 こののち、勢力を伸ばした袁紹は公孫瓚の本拠地に攻め込み、幾度の戦いを経て、その堅城を破る。 ここに公孫瓚は滅び、河北一帯は袁紹の治めるところとなった。 その後、袁紹は中原の覇者となるべく河南の曹操を攻めるが、 官渡で大敗したのち、宿願を果たせぬまま失意の内に没する。 かくして袁家の栄光は幻となって消えた。 |
張角伝 黄巾最終戦 |
【初期】 |
大賢良師と称した張角は、「蒼天巳に死す、黄天当に立つべし」との言葉を掲げ、 腐敗しきった朝廷を打ち倒して新しい国を興そうと各地の民に呼びかけていった。 張角の理想のもと集結した民たちは、目印に黄色い布を身に付け、ここに黄巾軍が立ち上がった。 黄巾軍は、士気の高さも相まって破竹の勢いで、進撃を続けていく。 事態を重く見た朝廷は、黄巾軍のお膝元である冀州に最精鋭部隊を送り込んできた。 理想を阻む者は除くのだ。自ら先頭に立って戦う張角に、黄巾の戦士たちが続く! |
【クリア後/列伝記】 |
鉅鹿郡の人。 山中で薬草を採っていたところ、南華老仙と名乗る老人と出会い、『太平要術』の書を授かった。 張角は、この書を得てから修行に励み、ついに仙術を身につけた。 老人は、天に代わって人々を救済せよ、と言い残していた。 そこで張角は、自らを大賢良師と称して布教にあたり、全国各地に太平道の信者を増やしていった。 張角は信者を部隊に編成し「蒼天巳に死す、黄天当に立つべし」という言葉を人々に広めた。 それは現麻丁の打倒と、新朝廷の創立を暗示するものだった。 太平道の信者たちは、頭に目印の黄色い布を巻き、黄巾軍となって立ち上がった。 朝廷は、討伐軍を差し向けるが、一度燃え上がった火は容易には消えなかった。 曹操、孫堅、劉備といった各地の群雄が立ちふさがるが、 黄巾軍の勢いは止められず、逆に火に油を注ぐ結果となった。 しかし、その勢いは思わぬ事態で弱まった。 人々の病を癒していた張角だが、皮肉にも病で没したのだ。 指導者を失った黄巾の乱は終息に向かうが、その火種はやがて三国争乱となり再び燃え上がるのであった。 |
孟獲伝 南蛮合戦 |
【初期】 |
蜀の北伐を退けた魏は、疲弊した成都を一気に攻め落とし、ここに蜀は消滅した。 勢いづいた魏は、さらに南征軍を繰り出す。南中の王・孟獲はその軍容に震えた。 敵との戦力差は、兵数を見ても、装備を見ても明らかであり、かつ圧倒的である。 だがしかし、大王であり、この地を統べる者である自分が退くことなどできない。 孟獲は南中王として、部下たちに、そして最愛の妻・祝融に、この地から逃れるよう命じた。 そして自分はひとり敵中に向かっていく。大王たる者の誇りとともに! |
【クリア後/列伝記】 |
南中の人。 南中一帯を治める大王・孟獲は、中原からの支配に抵抗し、蜀との国境付近で衝突を繰り返した。 そして、ついに南征に乗り出した蜀の丞相・諸葛亮と激突する。 しかし、諸葛亮の才略の前に敗北を繰り返し、七度捕らえられるに及んでついに孟獲は折れた。 忠誠を誓う孟獲に、諸葛亮は南中を再び統治するよう委ねる。 かくして南中は、中原との良好な関係を保った。 だが、蜀が北の魏に滅ぼされたとの知らせが届き、事態は一変する。 魏軍は南中へも侵略の手を伸ばしていたのだ。 蜀軍の数倍はあろうかという魏軍の威容を目にして、孟獲は覚悟を決めた。 そして、妻の祝融はじめ仲間たちに逃げるよう命じると、ひとり敵中へと向かっていった。 命懸けで闘うもの気迫の前に、さすがの魏軍もたじろいだ。 さらに、逃げたはずの仲間や妻たちが援軍となって闘ってくれたことで、孟獲の力がみなぎった。 孟獲は劣勢を覆して、魏軍を撃退した。 この勝利によって、南中は不可侵の土地とみなされるようになった。 そして孟獲は、勇敢なる南中王としてその名を残した。 |
祝融伝 孟獲救出戦 |
【初期】 |
北の蜀から、南中を侵略しようという軍勢がやってきた。 南中王の孟獲は、敵の大将・諸葛亮の姿がとても戦う者には見えないと侮り、まんまと計略にかかってしまう。 孟獲の妻・祝融は、夫の不首尾に怒り、さらに夫を奸計で捕らえた小賢しい敵の軍師に激怒した。 囚われた夫を救い出し、敵の鼻を明かしてやらねば気が済まない。 かくして祝融による孟獲救出作戦が開始された。 夜陰に紛れて蜀軍に潜入し、敵に見つからないよう愛する夫を助け出す。 その上で敵の軍師に一発かましてやるのだ! |
【クリア後/列伝記】 |
南中の人。 南中王・孟獲の妻、火の神の末裔と言われるだけあって、その気性激しく、 馬や象を巧みにこなし、飛刀の腕は百発百中を誇った。 当時、南中は北の蜀と小競り合いを繰り返していたが、ついに蜀軍が南征に乗り出す。 そして、道袍をまとい白羽扇を手にした諸葛亮なる軍師がやってきた。 夫の孟獲は自信満々に迎え撃つが油断したため計略にかかり、敵に捕らえられてしまう。 収まらない祝融は、孟獲を救出するべく夜陰に紛れて蜀陣へと向かった。 祝融にしてみれば、南中は自分の庭のようなものである。 蜀軍の目をくぐり、孟獲のもとへと至るのは難しくもなく、闘いになったとしても負ける気はしなかった。 かくして、祝融の孟獲救出は成功を収め、諸葛亮に一矢報いることができた。 だが、息を吹き返した諸葛亮は攻撃を本格化し、ついに南中は膝を屈することとなる。 孟獲は、諸葛亮の前で蜀への忠誠を誓った。すると諸葛亮は、孟獲に南中統治を委ねて蜀へ去った。 それは、諸葛亮が祝融に感服したからだと、南中の伝承に聞く。 |
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