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列伝モード概況 呉伝
真・三國無双3猛将伝攻略 列伝モード概況 呉伝を掲載しています。周瑜伝 赤壁謀略戦 |
【初期】 |
建安十三年(208)、呉の軍勢は赤壁で曹操の船団を迎え撃った。 この戦いは、都督・周瑜が黄蓋らと謀って火計を成功させたことにより、孫呉の大勝に終わった。 計略の決め手となったのは、劉備の使いで訪れていた諸葛亮が祈祷によって招いた東南の風だった。 役目を終えた諸葛亮は、いましも劉備のもとへ帰ろうとしていた。 その尋常ならざる才知は、のちの孫呉の脅威であり、周瑜にとって認めがたいものであった。 ならば諸葛亮を亡き者に・・・。周瑜の非情な決断が江水を震撼させる! |
【クリア後/列伝記】 |
字は公瑾。盧江郡舒県の人。 16歳のときに孫策と知り合う。同年ということもあって意気投合し、親友となった。 孫策が旗揚げすると、手勢を率いて駆けつけ、孫策を大いに喜ばせたという。 周瑜は若いうちから卓越した才能を発揮し、孫家の江東制覇に貢献をする。 建安十三年(208)、曹操との一大決戦に及ぶと、赤壁に策謀を巡らせてこれを破った。 曹操との戦いに勝利した周瑜は、休む間もなく次の手を打つ。 それは、今回連合した劉備軍の軍師であり計略の立役者となった諸葛亮を始末することであった。 諸葛亮の非凡な才は、周瑜も認めていた。それだけに、敵に回したときの脅威を見過ごせなかった。 周瑜は、孫家のためならと非情に徹し、諸葛亮に襲いかかった。 伏龍と称された諸葛亮も、周瑜の神速果敢な行動に遅れを取った。 諸葛亮は思惑通りことを運べず、劉備は荊州のすべてを得られないまま益州をめざすこととなる。 曹操に多大な打撃を与えた周瑜は荊州の大半を押さえ、三国中で呉の優位を保った。 その後も孫家の繁栄のため力を尽くし、美周郎の名声は世に鳴り響いたという。 |
陸遜伝 魚腹浦突破戦 |
【初期】 |
黄初三年(222)、陸遜率いる呉軍は、夷陵の蜀軍陣営を火計によってことごとく焼き払った。 劉備は失意の内に白帝城へと逃れ、戦いは呉の圧倒的勝利に終わる。 陸遜は勝ちに乗じ、劉備の追討に西へ向かうが、魚腹浦のあたりで立ち上る殺気に足を止める。 それは、諸葛亮が起死回生の策で仕掛けた石兵八陣であった。 「虎穴に入らずんば虎児を得ず」。諸葛亮の罠と承知のうえで、陸遜は陣中へと乗り込んでいった。 はたして陸遜の知略は、諸葛亮の鬼謀を陵駕することができるか! |
【クリア後/列伝記】 |
字は伯言。呉郡呉県の人。 豪族の出身。早くに父を失うが、親戚のもとに身を寄せ、その才を買われて一族を任される。 さらに異民族の討伐などで非凡さを発揮して、孫権に引き立てられた。 陸遜は、呂蒙の知遇を得て荊州の守備を任され、関羽を破る活躍を見せた。 そして都督となり、関羽の仇を討とうと攻め寄せた劉備を、長江沿いの夷陵で迎え撃つ。 黄初三年(222)、夷陵の戦いに勝利すると、陸遜は劉備追討のため西進し、魚腹浦に至った。 そこには、諸葛亮の仕掛けた石兵八陣が陸遜を待ち受けていた。 八陣図に則って巧みに配置された石の罠。 凡将であれば、抜け出すこともかなわぬ死地となるところだが、陸遜は知勇の限りを尽くし諸葛亮の奇策を陵駕して見せた。 石兵八陣を破った陸遜は、劉備を白帝城へ追い詰めた。 ここで劉備は失意の内に没し、諸葛亮に後事を託す。諸葛亮は陸遜の才を認め、呉との講和の道を選んだ。 この勝利により、陸遜の名は一躍天下に広まった。さらにら、魏との戦いでも勝利を重ね、都督の重責を果たす。 ついには丞相の地位に上り、国政を担うまでになった。 |
太史慈伝 劉繇軍壊滅戦 |
【初期】 |
建安二年(197)、孫策は劉繇軍に勝利する。捕らえた将兵の中に、太史慈の姿があった。 単騎で孫策と互角に渡り合った太史慈だが、主君の力量が及ばなかった。 太史慈の力を認めた孫策は、これを手厚くもてなし、力を貸すようもちかける。 意気に感じた太史慈だったが、このの手ぶらで帰順するのを良しとはしなかった。 そこで太史慈は、孫策の力となるべく、兵を率いて再びはせ参じることを約した。 四散した劉繇軍の敗残兵をかき集め、孫策の厚遇に信義をもって応えるのだ! |
【クリア後/列伝記】 |
字は子義。東莱郡黄県の人。 母が世話になった恩を返すため、北海太守・孔融の危機に単身駆けつけ、 敵の包囲を突破して援軍を呼び、これを救った。 のち太史慈は同郷である劉繇に仕官する。 その頃、江東で勢力を広げていたのが孫策である。 孫策は、劉繇のいる呉郡に攻め寄せてきた。 偵察に赴いた太史慈は、神亭で孫策を発見し、一騎打ちを仕掛けた。 両者一歩も譲らず、二人の戦いは引き分けに終わった。のち劉繇軍は敗れ、太史慈は捕らえられる。 敗将の太史慈であったが、孫策は手を取って仲間にと誘った。 孫策の誘いは、新しい時代の到来を予感させた。 太史慈はその志に懸けようと決め、劉繇軍の残存兵を手土産に引き連れてくることを約束して、その場を去った。 このまま帰らぬのではないか、と疑う者もいたが、孫策は太史慈を信じて待った。 そして約束の時、太史慈は軍勢を率いて戻り、孫策の信頼に対する忠義の証とした。 のち、呉軍の主力となった太史慈は、幾多の戦いに参陣して戦功を挙げた。 機知に富み、信義を守る太史慈を、主君はもちろん味方の武将たちも厚く信頼したという。 |
孫尚香伝 劉備逃亡戦 |
【初期】 |
建安十四年(209)、呉の孫権は、妻を亡くした劉備に妹である孫尚香との縁談を持ちかけた。 それは、劉備を呉まで呼び寄せて捕らえんとする周瑜の策だった。 劉備は、諸葛亮の勧めもあり、罠と知ったうえで呉に入った。 活発で武芸を好む孫尚香にたじろいだ劉備だが、その真っ直ぐな気性を知るにつれて好感を抱いていく。 一方、孫尚香も劉備の器の大きさと伸びやかな人柄に、かつてない想いが芽生えるのを感じていた。 かくして策略は現実へと変わる。ここに二人の逃避行が始まる! |
【クリア後/列伝記】 |
孫堅の娘。呉郡富春県の人。 幼い頃より武芸を好み、侍女たちにも武具を持たせ、撃剣としては楽しんでいたという。 それでいて利発で容姿も美しく、人々からは「弓腰姫」と愛でられていた。 そんな孫尚香ら、兄たちは縁談を持ちかけた。 正妻を亡くした劉備に嫁がせ、両家の結束を固めようというのだ。 だが、それは劉備を捕らえるための周瑜の策だった。 間もなく劉備は呉に入る。孫尚香はその風貌を見て、さらに人柄に接して英雄の器を感じた。 劉備を気に入った孫尚香は、罠を脱してともに逃れるという道を選んだ。 守ってもらうのではなく、自分が守る。 それは、武芸一筋に生きてきた孫尚香ならではの、精一杯の感情表現だった。そして劉備は、その想いを優しく受け止めた。 無事に荊州へ辿り着い二人は、そこで仲睦まじく暮らした。 呉との講和も結ばれ、孫尚香は平和な日々を送る。 それは、呉から母が病気との報が届くまで続いた。 孫尚香は急いで帰国したが、その直後、両勢力間で戦端が開かれ、劉備との再会の約束は叶わぬものとなってしまう。 のち、孫尚香は武具を長江に投げ捨てたという。 |
孫堅伝 反董卓前哨戦 |
【初期】 |
初平元年(190)、反董卓連合が挙兵する。 軍権を掌握し暴政を振るう董卓を討伐ようと、曹操の発した激に群雄が応じたのだ。孫堅もまた連合軍の中にあった。 孫堅は討伐戦に備え、軍糧調達を部下に指示するため城を空ける。 この隙を董卓は見逃さなかった。すでに勇名轟く孫堅を怖れ、先手を打って城を包囲したのだ。 一方からは呂布や華雄ら猛将たちが襲いくる。そして、董卓の手にかかった城の存亡は一刻を争う。 果断をもって鳴る孫堅だが、この苦境を打開することができるか! |
【クリア後/列伝記】 |
字は文台。呉郡富春県の人。 戦国時代の兵法家・孫武の子孫とされる。17歳のとき海賊退治で勇略を発揮し、広く何名を知られるようになった。 朝廷に任官されると、黄巾賊鎮圧に功績を挙げた。 のち、朝廷の実権は董卓が握り、暴政を振るうようになる。 曹操は董卓を討伐せんと激を発し、袁紹を盟主とする連合軍を結成した。孫堅もまた加わり主力となった。 かねてより孫堅の勇名を耳にしていた董卓は、その参戦を恐れた。 そして初平元年(190)、先手を打った董卓軍が、孫堅の留守を突いてその居城に攻め寄せた。 孫堅は軍糧調達を部下に指示するために城を空けていたが、急報を受けて直ちに戦闘態勢を取った。 そして呂布や華雄ら襲い来る猛将を物ともせず、董卓を破った。 その勇猛振りは「江東の虎の名に恥じないものであった。 江東に孫堅がいる限り、手を出せる者はいない。 孫堅は子息にも恵まれ、将来は安泰かのように思われた。 しかし、孫堅は劉表の配下を追撃していて罠に掛かり、落命する。 その遺志は、息子の孫策、孫権へと継がれた。 のち、帝位に即いた孫権は、孫堅を武烈帝と諡した。 |
孫権伝 合肥退却戦 |
【初期】 |
建安二十年(215)、孫権は軍を率いて長江を渡り、北の合肥城へと迫った。 魏が蜀と対峙している間に守りが手薄な合肥を奪い、魏への備えにしようとしたのだ。 数千の魏軍に対し、攻め込む呉軍は数万。合肥城の守将は、曹操の指示書に従い、討って出てきた。 だが多勢に無勢、呉の先鋒と激突した魏軍は、あえなく撤退する。 呉軍は追撃するが、それは孫権を挟撃せんとする張遼の罠だった。 その武勇の前に呉軍は崩れ、孫権に危機が迫る。 この窮地を脱しなければ、孫家の未来はない! |
【クリア後/列伝記】 |
字は仲謀。呉郡富春県の人。 孫堅の次子。孫堅亡き後、長子の孫策が跡を継いだが、その孫策も襲撃されたときに受けた傷がもとで早世してしまう。 孫家の命運はまだ19歳の孫権に負わされた。 江東の勢力内は動揺するが、周瑜ら重臣が孫権を盛り立てた。 孫権もまた、広く賢士を招いて、新旧の配下をよく用いていた。 孫権は堅実に着々と地盤を固めていった。 曹操の大軍が赤壁に攻め寄せた際は、降伏か抗戦かで揺れる陣営を一つにまとめ、大勝を収めてその野望を阻んだ。 その結果、天下は三国が分立する形へと移行する。 建安二十年(215)、蜀と共同戦線を張った孫権は、魏の合肥大軍で攻め寄せた。 守将の張遼らは小勢ながらも果敢に迎え撃ち、孫権は窮地に陥ってしまう。 孫権は、猛襲する張遼らを凌ぎ、間一髪のところで騎馬を駆って、危機を脱した。 そして、濡須まで撤退すると、再び軍を建て直して魏軍の南下に備えたのである。 その後、孫権はよく守り、三国は鼎立状態を続けた。 曹操、劉備と英傑が次々と亡くなる中、孫権は生きて呉を保った。 ついには帝位に即き、のち大帝と諡しされた。 |
呂蒙伝 麦城包囲戦 |
【初期】 |
当時、荊州といえば魏・呉・蜀の三国がにらみ合う要衝であった。 魯粛の後任としてこの地を訪れた呂蒙だが、その前には天下に威名轟く関羽が立ちはだかっていた。 呂蒙は、関羽の油断を誘うため、軍略家としての手腕を発揮する。 建安二十四年(219)、関羽が樊城の魏軍と交戦を始めると、裏に手を回して退路を断ったのだ。 これで関羽は後退極まり、麦城へと追いつめられる。 援軍も至らぬまま、ついに関羽は覚悟を決めて討って出た。 才略を備えた忠節の士・呂蒙がこれを迎え撃つ! |
【クリア後/列伝記】 |
字は子明。汝陽富陂県の人。 もとは武芸一辺倒の武将だった。 しかし、孫権から「将たるものは広く学問を修め、兵法にも通じてなければならない」と論されたのを機に精励し学識を身に付けた。 久々に会った魯粛が呂蒙の成長に驚くと、「士、別れて三日、刮目して見るべし」と答えたという。 孫権は、文武備えた呂蒙を荊州に赴任させ、関羽への抑えとした。 呂蒙は病気と称して、まだ無名の陸遜を後任とする。 安心した関羽が樊城の攻撃に赴くと、その隙に荊州へ攻め込み、蜀将を降した。すべては陸遜の策略であった。 樊城は落ちず、魏から援軍が到着する。そこへ背後を衝かれ、関羽は退却を余儀なくされた。 さらに呂蒙は、関羽の拠る麦城を攻め、脱走するところを討ち取った。 かくして名将・関羽は呂蒙の知勇に敗れ、荊州は呉の地となった。 怒った劉備は自ら軍を率いて討呉に臨むが、夷陵で陸遜に大敗し、呉と蜀の争いはここに終息する。 このとき呉の軍権は、実際に病を得た呂蒙から陸遜に移っていた。 病身の呂蒙は孫権に引き取られ、主君直々に手厚い看護を受ける。ここに呂蒙の忠節は報われた。 |
甘寧伝 濡須口の戦い |
【初期】 |
合肥へと攻め込んだ呉軍は、魏の守将・張遼、李典、楽進らの反撃に遭い、痛手を負ってしまう。 孫権は、長江近くの濡須まで軍を退いて逆襲の機を窺っていた。 建安二十二年(217)、濡須の孫権に、曹操の大軍勢が合肥城へ向かっているとの知らせが届く。 張遼らに雪辱戦を仕掛けるならば、合流前のいまをおいて外にない。 かくして、甘寧の率いる精鋭部隊に夜襲の任務が与えられた。 闇に紛れ、鈴の音ひとつ立てず敵陣へと近づく影。 魏将らの肝を冷やし、呉に甘寧ありと知らしめるのだ! |
【クリア後/列伝記】 |
字は興覇。巴郡臨江県の人。 任侠を好み、無頼の徒を率いては長江付近で威勢を振るっていた。 鈴を身に付け、甘寧の行くところ鈴が鳴り響いたという。 それが、あるとき行いを改めて仕官した。 はじめ劉表、次いで黄祖の配下となるが、活躍しても重用されず、蘇飛の勧めで呉へ赴いた。 呂蒙の推挙を得られたこともあり、甘寧は孫権に喜んで迎えられた。 そこで甘寧は、西進策を提案して鋭い戦略眼を披露し、すぐに夏口を攻略して孫権の期待に応えた。 甘寧の度胸と機略は、やかで呉軍の中核となり諸戦で発揮される。 建安二十二年(217)、甘寧の見せ場が訪れた。 合肥の敗戦から雪辱の機会を窺っていた孫権が、合肥再襲撃を決定したのだ。 その大役を担ったのが甘寧である。 わずかな精兵を率いた甘寧は、闇に紛れて魏陣営に近づき、襲撃をかけた。 思いもかけない敵襲に、魏の将兵は混乱に陥り、甘寧らの手で次々と討ち取られていった。 かつて張遼に痛い目に遭わされた孫権は、 甘寧の勝利を喜んで「魏に張遼あらば、呉に甘寧ありだ」とこれを誉め称え、先年の恨みを晴らしたということである。 |
黄蓋郃伝 赤壁前哨戦 |
【初期】 |
建安十三年(208)、大船団を擁した曹操が長江に押し寄せる。 呉の孫権は、周瑜らに諮って交戦を決断するが、戦力差を覆すには何らかの手を打つ必要があった。 本陣で策を講ずる周瑜のもとに、人目を忍んで一人の将が訪れる。 それは計略を携えた黄蓋であった。周瑜は敵を欺くため、黄蓋にその身を犠牲にした苦肉の計を託す。 計略を成功させるには、まず味方から欺かなければならない。そして、曹操陣営へと至って、大事を成すのだ。 歴戦の宿将・黄蓋が、心を鬼にして呉の関門を突破する! |
【クリア後/列伝記】 |
字は公覆。零陵郡泉陵県の人。 孫堅の挙兵から従った古参の将。孫策、孫権と三代に仕え、呉軍の中軸を担った。 黄蓋ら宿将と新参の将が力を合わせたことで、孫家は江東を支配するまでになる。 しかし、そんな江東に脅威が忍び寄る。中原の制覇を目論む曹操が大船団で迫ったのだ。 呉の本陣で策を講じる都督・周瑜のもとへ、黄蓋が計略を携えて訪れる。 黄蓋は偽って曹操に投降するために、周瑜と苦肉の計を実行した。 そして、曹操のもとに人をやって自分を受け入れる意志があるのを確かめると、陣営を抜け出した。 黄蓋が逃亡するものを見た呉将らは、これを止めんと挑みかかる。 まんまと味方を欺いた黄蓋だが、ここを突破しなければ本来の目的は達せられないと心を鬼にした。 かくして曹操陣営に至った黄蓋は周瑜との打ち合わせどおり火攻めを仕掛ける。 それは季節はずれの東南の風に煽られ、曹操の大船団を炎上させて河岸を赤く染めた。 黄蓋の献身の働きで、呉軍は勝利し、曹操の野望は打ち砕かれた。 のち黄蓋は、異民族の鎮圧に活躍する。部下の面倒をよく見たため士卒は先を争って戦ったという。 |
孫策伝 孫策幻影戦 |
【初期】 |
孫家が江東の平定を成し遂げたのは、孫堅の長子である孫策の活躍によるものが大きかった。 威勢を振るう孫策は、覇王・項羽の通称にちなみ、「小覇王」と称された。 その孫策の城下を騒がす者がいた。于吉と称する道士が、怪しげな術で人心を惑わせていた。 迷妄を嫌う孫策がこれを除こうとした矢先、于吉の方から訪ねてきた。 彼こそは邪教の徒であり、妖術で孫策を亡き者にしようとしていたのだった。 宮中深くで孤独な戦いが始まる。このまやかしを破って、健やかな江東を取り戻すのだ! |
【クリア後/列伝記】 |
字は伯符。呉郡富春県の人。 孫堅の長子。17歳のときに父が死んだため、袁術を頼って時機を待った。 そして、劉繇の平定を理由に兵を借りて独立を果たし、連戦連勝して呉の基盤を築く。 孫策は精悍で覇気に溢れ、快活な性格でよく人を受け入れたので、みな彼のために命を投げ出した。 いつしか彼は「小覇王」と称され、その名は江東中に広まった。 そんな折、妖術を操る于吉という道士が江東を騒がせる。 自力で道を切り開いてきた孫策は、人々が迷妄を信じ妖術に頼るのをよしとせず、これを取り除かんとした。 すると、手を下すより先に于吉が宮中を訪ねてきた。その正体は孫策の命を狙う邪教の刺客だったのだ。 孫策は、自らの手で迷妄を断って江東の平安を保った。 だが、孫策の強気な攻めは危険を伴った。 かつて呉郡太守・許貢を謀叛の罪で処刑したことで、仇を討とうとした食客の襲撃に遭ってしまい、重傷を負っていたのだ。 于吉との戦いで傷が悪化した孫策は弟の孫権を呼び 「兵を率いて天下を争うのは自分が勝っているが、賢臣を用いて江東を守るのはお前が上だ」と後事を託した。 |
大喬伝 呉郡番外戦 |
【初期】 |
建安五年(200)、江東を平定した孫策は、曹操の本拠地である許都攻略に乗り出す。 勢いに乗る孫策だか、その代償として多くの敵から命を狙われていた。 もとの呉郡太守・許貢の食客たちもまた、主の仇を討とうと孫策を追っていた。 そんな折、孫策の妻の大喬が、物見の役目を担ってかひとりの隊列を離れていった。 これは好機と、食客が取り囲む。大喬は、無事に孫策のもとへ帰り着けるのか。 不安を抱きながらも、小覇王の妻の名に恥じぬよう果敢に戦おうとする大喬であった! |
【クリア後/列伝記】 |
橋玄の娘。 美女として知られ、妹の小喬とともに「江東の二喬」と称される。その美しさは、月も光を消し花も恥じらう、と例えられた。 二喬は江東攻略を進める孫策らに保護される。そこで大喬を見初めた孫策は、迷わず妻に迎えた。 大喬の優しさは、戦いに明け暮れ荒みかけた孫策の心を癒した。 穏かな性格の大喬は、争い事を好まなかったが、孫策の力になれるのならと従軍する。 そして自ら物見に赴いたのだが、出先で不穏な連中に取り囲まれてしまう。 彼らは許貢の食客だった。孫策が許貢を処刑して以来、復讐の機を窺っていたのだ。 大喬は、急いで孫策に知らせようとするが、心配した孫策が駆けつけてくれた。 大喬は孫策の傍らで必死に戦い、ともに本陣をめざす。 だが、伏兵の矢が大喬を襲い、それは無情にも孫策に突き立った。 大喬の怒りと悲しみは鉄扇へと込められた。 その後、母となった大喬は、鉄扇を封印し、孫家の将来を陰ながら見守った。 のち、大喬の娘もまた呉の若き都督の妻となり、ともに孫家を支えたということである。 |
小喬伝 銅雀台脱出戦 |
【初期】 |
曹操が北方の平定を終えたころのこと。曹操は、地中から銅の雀を掘り出した。 これを吉兆と祝い、造ったのが銅雀台である。その後、曹操は江東の攻略に取りかかる。 曹操には、ひとつの野望があった。 江東で二喬と称される美人姉妹を手に入れ、銅雀台にて愛でようというのだ。 不運にも捕らわれた小喬は、銅雀台に連れてこられる。 小喬には、彼女を「江東の華」と可愛がってくれる大切な人・周瑜がいる。 だから、こんなところで捕まっているわけにはいかない。 どうにかして江東に帰るのだ! |
【クリア後/列伝記】 |
橋玄の娘。 姉の大喬とともに「江東の二喬」と称された美女。 孫策が江東攻略を進めた際、軍を率いていた周瑜に保護されて、その妻となった。 若き身で軍師として重責を担い、隙を見せることのできない周瑜にとって、 小喬の無邪気さは安らぎとなり、その明るさは軍義と策謀で張りつめた気持ちを和ませた。 だが、そんな二人の生活も、二喬を手中にせんとする曹操の野望によって打ち破られてしまう。 華北を支配した曹操は、力に物を言わせて小喬を奪い去ったのだ。 銅雀台へと連れ込まれてしまった小喬。 しかし、たかが小娘と見て油断した曹操の隙を突いて、小喬は反撃へと転じた。 屈強な将兵が次々と鉄扇の餌食になっていく。 小喬は、同じく捕らえられてきた姉の大喬と合流し、その力を倍増した。 二喬は息の合った攻撃で敵を破り、銅雀台から脱出を遂げて懐かしい江東への帰途についた。 家路を急ぐ小喬を出迎えたのは、いましも救出に赴かんとしていた周瑜だった。 その武勇伝を聞いた彼は「私の小さな猛将よ」と小喬を讃えたということである。 |
周泰伝 牛渚の戦い |
【初期】 |
孫策が「小覇王」と呼ばれ始めた頃のこと。江東平定に乗り出した孫策は、広く人士を求めていた。 そこに、ひとりの将が身を寄せる。名を周泰、字を幼平といった。 水賊だったと噂されるこの漢は、何事にも動じない胆力を買われて、孫策の弟・孫権の護衛役となる。 まだ場数を踏んでいない若い孫権の目に、周泰は頼もしく映った。 その武勇が発揮されるときはすぐ訪れる。劉繇との戦いで、孫権が敵に取り囲まれてしまったのだ。 孫権の信頼に応え、その命を救うため、周泰は死地へと斬り込む! |
【クリア後/列伝記】 |
字は幼平。九江郡下蔡県の人。 長江の辺りで水賊を働いていたといわれる。寡黙ながら行動で示す硬骨漢。 江東で勇名を馳せていた孫策が賢士を招いていると聞き、駆けつけて取り立てられる。 その後、周泰は孫策に従って劉繇との戦いに臨み、その武勇と度胸に目をつけられる。 孫策は、周泰をまだ若い弟・孫権の護衛役として、ともに城を守るよう命じた。 そして、孫策は軍の主力を率いて進発した。すると、劉繇は手薄な孫権の守城に攻め寄せた。 不意を衝かれた孫権は、必死に応戦するも敵中に取り残されてしまう。 周泰は敵中へと斬り込み、白刃をきらめかせて孫権の馳せつけた。 さらに身を盾にして味方のいる地まで護衛した。周泰の決死の働きで、孫権は窮地を脱した。 このとき周泰は、12ヶ所に及ぶ傷を負ったという。 その後も周泰は孫権の信頼ら応え、再び危地に陥った孫権を命懸けで救い出す。その体には幾多の数が刻まれた。 のち孫権は、周泰の労をねぎらうために宴会を開き、自ら周泰に酒を注いで、傷の由来を語らせた。 そして「江東の虎臣」と称え、青の絹傘を下賜して謝意を表した。 |
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